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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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84話 狂犬お市様の駿河の玄徳

西暦1553年8月13日 夕方(和暦:天文二十二年 八月十三日)

場所:駿河 松平元康邸近傍の海 砂浜

 盂蘭盆の夕。

 潮の匂いが、松林の青い匂いと混じって、涼しい風に運ばれてくる。

 砂浜は白く、波は静か。遠くに富士が、雲をかぶって黙していた。

 その景色の前で――松平元康は、母・於大から届いた手紙を、膝の上に広げていた。

 人質暮らし。

 父のことも、先祖のことも、寺で拝み終えたはずなのに、胸の奥が、まだざわつく。

 手紙は、やけに土の匂いがした。

 「畑はこう耕せ」「苗はこう守れ」「人は、腹を満たせば目が生きる」

 武辺の言葉ではない。政の言葉だ。

「……母上は、いつから百姓になられたんだ」

 元康が、ぽつりと漏らすと――隣で石を拾っていた男が、笑った。

「殿。百姓は強うございます。腹を満たす者が、天下を満たしますゆえ」

 酒井忠次。

 まだ若い主君に、あえて軽口を混ぜて、心をほどこうとする家臣である。

「忠次、そなたは今川の飯で太って、口まで達者になったか」

「太るほどの飯なら、殿の頬ももう少し丸うございますよ。……殿は、痩せすぎでございます」

 元康は苦笑し、手紙を握り直した。

 紙の端に、薄い香の気配が残っている。母の手。――いや、違う。女の香だ。

「……書いてある。内政ばかりしている、と。待遇が良い、と。仕える主は、絶世の美女、と」

「美女、でございますか」

「そこに食いつくな、忠次」

 忠次は肩をすくめるが、その目は鋭い。

 人質の屋敷は監視される。されぬものもある。手紙は、その“されぬ”の方に入っている。

「殿。水野殿――いや、元殿様とお呼びすべきか。母君の於大様が“仕えた”と書く主。

 その名は……“狂犬お市”。尾張の姫武者、と」

 元康は、波を見た。

 海の向こうに、船影があった。小さい。だが確かに、潮に乗って動いている。

「忠次。……不思議だと思わぬか。

 今川の城下は、武士が多い。口も目も多い。なのに、尾張の噂だけが、やけに速い」

「速い噂ほど、誰かが流しております。速い銭も、誰かが流しております」

「……流す者がいる、か」

 元康は、手紙の文面をなぞる。

 “土を作れ”。“人を雇え”。“港を広げよ”。

 武士の家の女が、ここまで具体に書けるものか。

 そして――文の端に、さらりと添えられていた言葉。

 ――『銭は、休まぬ。人は、休め。銭を働かせよ』。

 元康は息をのんだ。

 それは、戦ではない。

 戦の前に、勝っている者の言葉だ。

「忠次。もし、その姫が――人の腹を満たし、銭で人を集め、海を抑え、噂を操るなら」

「……殿の今の御身は、やがて“籠”では済まぬやもしれませぬ」

 忠次が、初めて声を落とした。

 冗談の皮が剥がれ、芯が出る。

 元康は松林の影を見た。

 そこにいるはずのない影が、いる気がした。

 忍び。諜報。――噂の中の“伊賀”という言葉が、頭をよぎる。

「母上は、言っておられた。内政ばかりしている、と。

 それは――戦の準備ではないのか」

「内政は、戦より重いことがございます。

 矢は一夜で作れませぬが、腹は一夜で空きます。腹を埋める者は、心を握ります」

「……劉備玄徳が、民を捨てずに逃げた話がある。

 民がついて行き、民が盾になり、民が道になる。――そういう男が、天下を取る、と」

「殿が、その玄徳を好まれるのは存じております。

 しかし殿。尾張の“狂犬姫”は、玄徳とは少々……違うようで」

「どう違う」

「玄徳は、民を抱いて泣く。

 狂犬姫は、民を抱いて――稼がせ、鍛え、学ばせ、売らせる。

 泣く暇を与えぬ。……涙も銭に変えそうでございます」

「忠次、それは褒めているのか、怖がっているのか」

「両方でございます」

 二人の間に、波音だけが通った。

 富士は黙り、海は黙り、潮はただ流れていく。

 元康は、手紙を胸に当てた。

「……調べる。

 母上を“百姓にした”主を。

 水野を“内政役”にした主を。

 ――そして、尾張の噂を“黒潮のように”流す者を」

「殿。調べるなら、覚悟を。

 噂を調べる者は、噂に調べられます」

「ならば、調べられてもよい。

 我が名が泥にまみれようと、民が生きる道があるなら――俺は、そこへ行く」

 元康の声は、静かだが折れない。

 忠次は、その横顔を見て、ふっと笑った。

「……殿、玄徳でございますな。

 ただ、殿は殿でございます。松平は松平の道を」

「忠次。最後に一つ。

 その“狂犬”は……犬なのか。姫なのか。仏なのか」

「たぶん――全部でございます」

 忠次の答えに、元康は小さく息を吐いた。

 笑いとも、震えともつかぬ吐息。

 遠くの船影が、夕闇へ溶けていく。

 潮は、すでに繋がっている。

 尾張から駿河へ。駿河から、いずこへ。

 元康は、手紙を丁寧に畳み、袖に収めた。

「帰るぞ、忠次。

 明日から――俺は、“噂”を学ぶ」

「ははっ。ではまず、殿。噂の第一歩として――顔色を良くして下さいませ。

 そのままでは、噂より先に医者に捕まります」

「うるさい。医者は……尾張にいるらしいな」

「はい。世界一美しい医者が」

「忠次、もう黙れ」

 盂蘭盆の夕風が、二人の背中を押した。

 松林はざわめき、海は黙る。

 そして富士だけが、すべてを見ているように、ただ高く在った。

◉狂犬記 作者・桃(感想)

元康さま、えらい真面目です。忠次さま、口が達者すぎます。

でも、こういう“人質の夜”って、戦より怖い。刀がなくても、心は刺さる。

お市様の言葉(銭を働かせよ)が、駿河まで届いてる時点で……もう、黒潮こわい。

桃の日記

盂蘭盆の夜は、海が綺麗。

人は先祖を拝むけど、武者は“未来”を拝むのかもしれない。

元康さまが調べ始めた。――つまり、お市様の網が、もう一つ増える。

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