第83話 狂犬お市様の諜報網
西暦1553年8月3日
和暦:天文二十二年 八月三日 昼
駿河は、平和だった。
夏の昼下がり。
駿河城下町は、潮の匂いと魚の声に満ちている。
港では荷が上がり、
寺では経が唱えられ、
別邸では今川の家臣たちが、のんびりと茶を飲む。
――あまりに、平和すぎた。
だからこそ、誰も気づかなかった。
この日、今川義元の足元に、千の目が生えたことを。
駿河港・大原雪斎寺
境内では、旅僧が掃き掃除をしている。
井戸端では、女たちが水を汲む。
その中に、
伊賀の忍びがいた。
だが、誰も忍びとは思わない。
彼らは、
僧であり、
行商であり、
女中であり、
船頭であり、
町人であり――
普通に生きていた。
清水港・今川別邸
荷の検分をする役人の背後。
帳簿を運ぶ下男。
酒を運ぶ女。
その配置は、偶然ではない。
「……南、終わった」
風に紛れる声。
「港側、異常なし」
目が合うことはない。
頷くこともない。
それでも、
情報は、確実につながっていく。
駿河城下・とある長屋
畳に座る三人の女。
百地さくら
藤林あやめ
服部せつな
年頃の娘にしか見えないが、
この部屋こそが、
狂犬家臣団・諜報中枢だった。
「配置、七割完了」
さくらが、淡々と告げる。
「寺、港、城下、別邸」
「すでに生活に溶け込み始めた」
あやめが、帳面を閉じる。
「今川の者は、疑っていない」
「“忍びは、伊賀にしかいない”と思っている」
せつなが、くすっと笑う。
「思い込みは、毒やな」
三人は、酒も飲まない。
声も荒げない。
戦が始まっている自覚すら、ない。
作戦名:狂犬式・静脈侵食
お市様からの命は、ただ一つ。
「戦うな。
近づくな。
気づかれるな」
諜報員――千人。
情報を盗らない。
煽らない。
壊さない。
ただ、
見て、
覚えて、
暮らす。
「結果は、来年」
さくらが言う。
「今年は、種まき」
「来年、刈り取る」
あやめが、静かに続ける。
「義元は、気づかない」
「気づいた時には――」
せつなが、窓の外を見る。
「自分の城が、誰の城かわからんくなる」
同刻・尾張
藤吉郎は、文を読んでいた。
短い。
簡潔。
だが、恐ろしい内容だ。
(……千人、か)
思わず、息を吐く。
「これは……戦やない」
「環境づくりや」
藤吉郎は、ようやく理解した。
お市様は、
今川と戦うつもりなど、ない。
戦えなくするつもりなのだ。
(姫様……)
(あんた、ほんまに……)
震えと同時に、誇りが湧いた。
駿河の空は、今日も晴れている。
今川義元は、何も知らない。
だが、
市場の噂も、
寺の空気も、
港の流れも、
すでに、狂犬お市様の呼吸に合わせて動き始めていた。
戦は、まだ来ない。
だが、
勝敗は、静かに決まりつつある。
◉狂犬記
作者・桃 感想と日記
天文二十二年 八月三日。
駿河、侵食開始。
忍びとは、影ではない。
生活そのもの。
刀よりも、時間が強い。
火よりも、慣れが怖い。
千人が、同じ空気を吸う。
それだけで、国は傾く。
お市様は、やさしい顔で、
最も残酷な戦を選ばれた。
来年が、楽しみである。




