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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第82話 狂犬お市様の川浪流通網 ――藤吉郎、勇躍する

西暦1553年7月30日

和暦:天文二十二年 七月三十日 朝

場所:美濃・川浪衆 蜂須賀小六屋敷

 朝靄が、川面を這うように流れていた。

 美濃の川は静かだが――ここに集う者たちは、決して静かではない。

(ここは、戦場やな)

 木下藤吉郎は、そう思いながら座敷に正座していた。

 刀は帯びていない。

 甲冑もない。

 だが、この場にあるのは――刃よりも鋭い視線だった。

 正面には、どっしりと胡坐をかく男。

 蜂須賀小六。

 その背後と左右、柱にもたれ、壁際に立ち、縁側に腰を下ろす――

 川浪衆。

 川で生き、川で殺し、川で稼ぐ者たち。

 誰一人、藤吉郎を客とは思っていない。

「で?」

 小六が、低く口を開いた。

「尾張の“狂犬様”が、

 今度は――川まで噛みに来たか?」

 数人が、くくっと笑った。

 藤吉郎は、深く一礼する。

「本日は、お願いに参ったのではございませぬ」

「ほう?」

「選択肢を、持って参りました」

 空気が、ぴんと張る。

「選択肢?」

「はい」

 藤吉郎は、懐から文を出した。

 朱印はある。

 だが――筆はやたらと達筆で、どこか雑だ。

 川浪衆の一人が、ひそりと呟く。

「……狂犬様の字や」

 藤吉郎は、文を差し出さない。

 読む前に、語る。

「伊勢湾、尾張、美濃――

 狂犬堂は、港と川を抑えます」

 ざわり。

「船を動かし、荷を流し、銭を回す」

「ふん……それで?」

「川浪衆の仕事が、増えます」

「は?」

「盗みか?」

 藤吉郎は、即座に首を振った。

「守りです」

 小六の目が、細くなった。

「守る?」

「狂犬堂の荷は、盗まれやすい。

 偽物も出回る。

 それを――守り、流し、嗅ぎ回る」

 藤吉郎は、はっきり言った。

「川浪衆を、正業に引き上げます」

 ざわめきが、はっきりとした騒ぎに変わる。

「俺らが正業?」

「冗談やろ」

「笑わせるな」

 藤吉郎は、笑わなかった。

「笑いませぬ。

 お市様は、本気です」

 小六が、ゆっくり立ち上がる。

「藤吉郎」

「はっ」

「……命、張っとるな」

「はい」

 藤吉郎は、即答した。

「お市様の命を守るのが、わしの役目です」

 小六は、数歩近づく。

「裏切ったら?」

「斬られます」

「誰に?」

「お市様の名で」

 一瞬、静寂。

 やがて――

「はははははは!」

 小六が、腹を抱えて笑った。

「気に入った!」

「聞いたか、川浪衆!」

 振り返り、声を張る。

「俺らは今日から、川を盗む衆やない!

 川を動かす衆や!」

 藤吉郎は、深く、深く頭を下げた。

「……ありがたき幸せ」

 小六は、拳を胸に当てる。

「今は、美濃で川浪衆を続ける」

「はい」

「だがな――」

 にやりと笑う。

「狂犬様が呼べば、いつでも協力する」

 こうして、血を流さぬ戦は終わった。

 川は、今日も流れる。

 だがその流れは――

 確かに、狂犬お市様のもとへとつながった。

◉狂犬記

作者・桃 感想と日記

 天文二十二年 七月三十日。

 美濃・川浪衆、調略成功。

 藤吉郎、また一つ大きくなった。

 刀を振らず、言葉で国を動かす。

 蜂須賀小六――

 危険な男。

 だが、川を抑えるには、川の獣が要る。

 お市様は、善悪を問わぬ。

 使い道を見る。

 盗賊を捕まえるのが捕物ではない。

 危うい力を、正しい場所に捕まえること。

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