第80話 狂犬お市様の狂犬式・人質生活 元康
西暦1553年6月25日(和暦:天文二十二年 六月二十五日) 昼/雨
場所:駿河国・松平元康 屋敷
雨が、しとしとと庭を打っていた。
紫陽花が濃く、青く、赤く、重たい雫を抱えている。
縁側に座る松平元康は、手紙を一度閉じ、また開いた。
雨音に、紙の擦れる音が混じる。
「……水野から、か」
低く呟くと、向かいに座る酒井忠次が湯飲みを置いた。
「母上からも、同じ便でございますな」
今川の屋敷は、人の出入りに目が光る。
だが、皮肉なことに――手紙は監視されていない。
来ないものは、疑われない。
それが、人質の暮らしだ。
元康は、改めて文を追う。
――今川より後詰め、ついになし。
――狂犬お市様に仕官。
――待遇よく、銭に困らず。
――戦はなく、内政ばかり。
――お市様、絶世の美女にて、理と情、共に恐ろし。
忠次が、苦笑した。
「……随分と、楽しそうな文で」
「楽しいのだろうさ。水野は、戦より畑が好きだ」
元康は、庭の紫陽花へ目をやる。
雨に濡れて、花は重く垂れている。
だが、折れてはいない。
「内政、か」
元康は、ぽつりと言った。
「城を攻めるより、腹を満たす方が、よほど人は動く」
忠次が、少しだけ驚いた顔をした。
「……珍しいお言葉にございますな」
「人質は、考える時間だけはある」
元康は、もう一通の手紙――おだいの文を手に取った。
母の文字は、やや丸い。だが、芯がある。
――元康、心配するな。
――わらわは元気。
――狂犬お市様は、恐ろしいほど聡い。
――銭を働かせ、人を休ませる。
――この世に、こんな姫がおったとは。
元康は、ふっと息を吐いた。
「“銭を働かせる”……か」
「今川殿には、思いつかぬ発想でございましょうな」
忠次の声には、わずかな棘があった。
雨脚が、少し強くなる。
紫陽花の葉が揺れ、雫が弾けた。
「忠次」
「は」
「世は、戦だけでは動かぬのかもしれぬ」
忠次は、黙って頷いた。
今は、人質。
だが、いつかは――外に出る。
元康は、手紙を畳み、膝の上に置いた。
その目は、雨の庭ではなく、もっと遠くを見ていた。
「狂犬お市、か……」
名を口にするだけで、何かが動く気がした。
「会ってみたいものだな」
忠次が、苦笑する。
「胃が痛くなる覚悟が、必要かと」
元康は、雨の中で、静かに笑った。
◉狂犬記 作者・桃 感想と日記
天文二十二年 六月二十五日、駿河は雨。
人質の屋敷は静かで、音は雨と紙の擦れる音だけ。
水野信元と、おだい様の手紙は、重かった。
戦がない。銭がある。人が休める。
それは、当たり前のようで、当たり前ではない。
元康殿は、まだ動かない。
だが、考え始めている。
“戦わずに、勝つ”という発想を。
紫陽花は、雨に打たれても折れない。
色を深めるだけだ。
狂犬お市様の影は、すでに駿河まで伸びている。
捕物帖は、刃の音だけではない。
人の心を、そっと捕まえる話でもある。
次に捕まるのは――誰の心だろうか。




