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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第79話 狂犬お市様の狂犬式――捕物帖「香水お市、夜を裂く」

西暦1553年5月25日(和暦:天文二十二年 五月二十五日)夜中

場所:尾張・鳴海城下町/狂犬堂 鳴海店・蔵

――岡部元信 視点

 夜は、人の腹も銭も眠らせる。

 だが――盗っ人だけは起きている。

 鳴海の城下は、潮の匂いと土の匂いが混じる。

 蔵が並ぶ裏道に、月明かりが細く落ちていた。

「……静かすぎるのが、一番怪しい」

 俺――火付盗賊改役・岡部元信は、息を吐いた。白い。夜は冷える。

 同心十人が、闇に溶けるように散っている。

 狂犬堂の蔵。

 ここには、銭より重いものがある。

 化粧品。

 いわゆる“狂犬堂のハイブランド”。

 そして――その中のハイブランド。

『お市』

 香水。

 姫様の名を冠した、あの香り。

 ふざけた話だが、戦よりも火よりも――この“香り”が人を狂わせる。

 最初の異変は、蔵番の町人が気づいた。

「岡部さま……蔵の戸の、縄が……違います」

 震える声。手が土にまみれている。夜番の途中で駆け出したのだろう。

 俺は戸口に膝をつき、縄の切れ目を見た。

 刃が立っている。綺麗すぎる。

 普通の盗賊の切り方じゃない。

「……刃が薄い。短刀か。いや、忍びの小刀だな」

 同心が唾を飲む気配がした。

「忍び……でありますか」

「焦るな。焦ると足音が銭になる。――盗っ人にとってな」

 俺は合図を出す。

 同心十人が、蔵の周囲を包む。

 逃げ道は、裏の用水と、屋根の上と、表通り。

 どれも潰す。

 蔵の中は暗い。

 だが、鼻が先に“異物”を拾った。

 甘い。

 冷たい。

 花と、何か金属のような――研いだ刃の匂いが混じる。

「……香水か」

 俺は小さく呟いた。

 こんな夜更けに、香水をまとって盗みに入る馬鹿がいるか?

 いる。

 しかも、狙いは“お市”。

 姫様の香りで、姫様の銭を奪う。

 やることが挑発的すぎる。

 ――これは盗みじゃない。喧嘩だ。

 蔵の中に、かすかな衣擦れ。

 俺は手を上げる。止まれ、の合図。

 同心の気配が凍る。

 月明かりが、蔵の隙間から細く差し込んだ――その瞬間。

 白い肌が、闇に浮いた。

 雪のように白い。

 目が美しい。

 人の心を盗む目だ。

 女。

 甲賀くの一。――そういう“匂い”がする。

 女は、棚の奥から小瓶を一本、指先で抜き取る。

 紙包みを丁寧に畳み、懐へ入れる。

 そして――鼻先に指を当て、くすりと笑った。

「……“お市”は、良い香りでしょう?」

 囁く声。

 こっちの心臓を試す声。

 同心が踏み込みかけた。

 俺が低く止める。

「待て。囲ってからだ」

 女は気づいている。

 気づいたうえで、遊んでいる。

 俺は、敢えて声を出した。

「盗っ人。蔵の中は迷子になるぞ。出て来い」

 同心の一人が、ぼそりと呟く。

「迷子にさせられるのは、こっちでありますな……」

「黙れ。胃が痛くなる」

 女は、ゆっくりと振り返った。

 月の筋が、頬を切るように照らす。

「火付盗賊改役、岡部元信。噂は聞いてます」

「噂は銭にならん。――お前の名は」

「名乗るほどの者でもないわ」

 名乗らない。

 忍びは名を捨てる。

 だが、香りは捨てられない。

「香水“お市”を使っているな」

 俺が言うと、女は目を細めた。

「当たり。さすが“火付盗賊改”」

「火はつけてない。盗みも、今日が初めてじゃないな」

「どうして?」

「手が綺麗すぎる。指先が“盗む指”だ。慣れている」

 女が笑う。

「褒め言葉?」

「縄で縛ってから言う褒め言葉だ」

 その瞬間――女の足が、床板を蹴った。

 風のように速い。

 蔵の梁へ跳び、天井の抜け道へ向かう。

「上だ! 逃がすな!」

 俺は叫び、外の同心へ合図を飛ばす。

 蔵の屋根に影が走る。

 同心十人が一斉に動いた。

 矢が放たれ――外れた。

 女は、屋根瓦を滑り、用水の方へ飛ぶ。

 俺は追う。

 足が泥を噛む。

 城下の夜道は、昼より危険だ。石も溝も、全部が罠になる。

 女は、振り返りもせず走る。

 だが、香りだけが残る。

 ――お市。

 姫様の香りが、盗っ人の背中から漂う。

「ふざけるなよ……」

 俺は歯を噛んだ。

 これは城下の治安の問題じゃない。

 狂犬堂への挑発だ。姫様への挑発だ。

 用水へ飛び込む寸前、女がふっと横にずれた。

 同心の一人が、先回りしていた。

「止まれ!」

 同心が槍を出す。

 女は――槍の柄を踏み台にして、軽く宙を舞った。

「え、踏まれた!?」

 同心が素っ頓狂な声を上げる。

 俺は怒鳴る。

「踏まれるな! 武士が踏まれるな!」

「だって! 美人が! 踏むんです!」

「美人だろうが盗賊だ!」

 女は、用水を越え、裏の藪へ消える……はずだった。

 俺は、最後の一手を打つ。

 腰の縄を投げた。

 先端の輪が、女の足首にかかった。

「取った――!」

 俺の声が夜を裂く。

 だが、女は止まらない。

 止まらずに――足首の輪を、刃で切った。

 輪が落ちる。

 切り口が、あまりにも綺麗だ。

「……っ!」

 俺が息を呑む。

 女は振り返り、月明かりの中で微笑んだ。

 目が、美しい。

 そして残酷に静かだ。

「また来るわ。――“お市”の続きが欲しいもの」

 言い残し、闇に溶けた。

 同心が悔しそうに拳を握る。

 俺は地面の切れた縄を拾い上げ、匂いを嗅いだ。

 香水“お市”。

 盗賊の匂いじゃない。

 姫様の匂いだ。

「……姫様に報告だ」

 俺は低く言った。

「今度の相手は、“ただの盗賊”じゃない」

――同心 視点(若い同心の胸の内)

 俺は、怖かった。

 火事場より怖いものがあるとは思わなかった。

 蔵の中で見た女盗賊は――綺麗だった。

 綺麗すぎて、目が追いつかない。

 そして、香りがした。

 あれが“お市”の香水か。

 こんな匂いなら、男は骨抜きになる。

 いや、俺は骨抜きになりかけた。

 悔しい。

 踏まれた槍の同僚は、今も「踏まれた……」と呟いている。

 岡部さまは怒っているようで、冷静だった。

 逃げられたのに、声が揺れていない。

 ――この人は、火も盗賊も、全部“仕事”として見ている。

 俺はまだ、“怖い”が先に来る。

 でも。

 逃げられた。

 次は、逃がしたくない。

 城下の治安は、俺たちが守る。

 そして、狂犬堂の蔵は――姫様の銭袋だ。

 あの女は、きっとまた来る。

 香水“お市”を、盗みに。

 いや――姫様を、試しに。

 俺は、槍を握り直した。

◉狂犬記 作者・桃 感想と日記

 天文二十二年 五月二十五日、夜中。鳴海の蔵が破られた。

 盗賊は女、甲賀のくの一。美しく、白く、目が怖いほど澄んでいた。

 そして――香水“お市”をまとっていた。

 これは盗みではない。挑発だ。

 姫様の名を盗み、姫様の香りで姫様の蔵を荒らす。

 岡部さまの胃が痛くなるのも当然だと思う。

 捕まえられそうで、捕まえられない。

 縄の切り口が綺麗すぎて、忍びの技が見えた。

 同心たちも頑張ったが、敵が一枚上だった。

 でも、逃げた女は“また来る”と言った。

 それはつまり、次は捕まえる機会があるということ。

 城下の夜は冷たい。

 だけど、狂犬堂の蔵は、もっと熱くなる。

 次の捕物が、怖い。――そして、少しだけ楽しみだ。

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