第77話 狂犬お市様の狂犬式――料理店 丼物「まつ屋」
西暦1553年5月20日(和暦:天文二十二年 五月二十日)
場所:尾張・熱田(宮の渡し近く)
朝の熱田は、潮の匂いと、神前の線香の匂いが混じる。
参詣人、船頭、荷を担ぐ男、子を連れた女。――そして腹を鳴らす連中。
その腹を、力づくで黙らせる店がある。
丼物屋――「まつ屋」。
暖簾の端に小さく「狂犬堂」。
真ん中にでかく「まつ屋」。
看板の字がやたら整ってるのは、店長が几帳面なせいだ。
店内は、カウンター十席。
座敷(四人卓)五つで二十席。
合計三十人。満席になったら、空気が湯気で白くなる。
メニューは潔い。
親子丼(小・中・大・特盛)
かけうどん/ざるうどん/わかめうどん/月見うどん/鶏肉うどん
わかめ味噌汁
大根の漬物
裏メニュー:親子丼「獄盛」
獄盛は、文字通り“獄”。
米も鶏も卵も盛りが狂ってる。食べた者は沈黙し、店を出るとき顔が勝った武者みたいになる。
まつの一日(朝)
まだ日が上がりきらん頃――
「よし。起きるで。今日も勝負や」
前田まつ(15)は、袖をきゅっと結び、髪をひとつにまとめた。
厨房には料理係五人。
接客は女性の店員六人。
病で夫を亡くした者、戦で家を失った者、流れ者。
まつは彼女らを“仲間”として数え、朝の声掛けだけは必ず自分でやる。
「おはようさん。今日も――死ぬほど忙しいで」
「店長、それ励ましですか脅しですか」
「励ましや。うち、優しいからな」
「顔が武将みたいです」
「武将みたいに働いたら、銭も武将並みに入るで!」
笑いが起きる。
笑えたら勝ち。熱田の朝は、それで回る。
まずは出汁。
昆布と鰹節を火にかけると、湯気が立ちのぼり、店が“飯の場所”になっていく。
次に鶏。
親子丼の命は、鶏の火の入り方と、玉子の半熟の塩梅。
まつは鍋を見たまま言う。
「玉子はな、人生と同じや。固めすぎたら、戻らん」
「店長、突然ええこと言う」
「せやろ? ほな戻って働こか」
厨房の空気が締まる。
鍋が鳴り、包丁が鳴り、器が鳴る。
昼の戦(熱田の胃袋戦線)
日が高くなると、客が雪崩れ込む。
参詣帰りの男衆がまず来る。
「親子丼・中!」
「かけうどん!」
「月見うどん! 玉子増やせるか!」
「増やせる。銭増やせ」
「言い方ァ!」
カウンター十席が一瞬で埋まり、座敷も回りだす。
店員たちは声を張り、足を止めず、膳を運ぶ。
「いらっしゃいませー! まつ屋へようこそー!」
「漬物足りんとこ、言うてくださいねー!」
「味噌汁、熱いんで気ぃつけて!」
ただの食堂じゃない。
ここは“居場所”でもある。
うちの子が泣いてたら、店員が抱いてあやす。
疲れた女が座敷でふっと目を閉じたら、誰も起こさない。
その代わり、まつが起こす。
「寝るなら、腹いっぱい食べてから寝ぇ。ほら、親子丼・小、サービスや」
「……え、いいんですか」
「ええ。後で働けるようになるからな」
まつの計算は、戦国の算盤だ。
情けは銭になる。銭はまた情けになる。
循環させた方が、強い。
事件:獄盛、来たる
昼の山を越えかけた頃。
戸口で、妙に背の高い男が暖簾をくぐった。
顔は隠すように俯いているが、体格が“武”のそれ。
店員が聞く。
「ご注文は?」
「……獄盛」
「え」
「獄盛」
「えええ」
店内が一瞬、静まり返る。
獄盛は裏。
頼む者はだいたい、無謀か、伝説になりたいか、どっちかだ。
まつがカウンターから顔を出す。
「兄ちゃん、ほんまに? 死ぬで?」
「死にたいわけではない」
「ほな、やめとき」
「……挑む」
「なんでやねん!」
厨房がざわつく。
「店長、米足ります?」
「鶏足ります?」
「玉子が尽きます!」
「尽きたら、尽きたで戦や!」
まつは鍋を据え、腕をまくり、火を強めた。
玉子を溶き、鶏を煮て、葱を入れ、出汁を張る。
その手際が速すぎて、客が見ているだけで腹が鳴る。
器は大鉢。
白米が山。
その上に、半熟の金色が――どろり、と滝のように落ちる。
「……はい。獄盛」
まつが置いた瞬間、店内に拍手が起きた。
獄の扉が開いた音がした(たぶん)。
男は黙って食う。
黙って、しかし速い。
汗が額を流れ、最後の一口が消えた時、男は静かに言った。
「……うまい」
「当たり前や」
「また来る」
「来る前に胃を鍛えとき」
男は銭を置いて去った。
店員がこそこそ言う。
「あれ……武者ですよね」
「たぶん」
「店長、なんかの修行僧みたいでした」
「獄盛は修行や。食う側も、作る側も」
夕方の締め(そして明日へ)
日が傾くと、客足が落ちる。
まつ屋は片付けに入る。
味噌汁の鍋を洗い、出汁の器を拭き、床を磨く。
店員たちは疲れて座敷にへたり込みそうになるが、まつが笑う。
「今日もよう回した。よう生きた。えらい」
「店長も……」
「うちはまだ。帳面つけて、明日の仕込み考えて、最後に漬物の塩加減見て終わりや」
誰かがぽつりと言う。
「店長、なんでそんな働けるんですか」
まつは、漬物樽の蓋を押さえながら答えた。
「働いた分だけ、誰かが救われるからや。……それに」
少し笑って、言う。
「姫様に『死ぬほど利益をあげよ』言われたしな!」
「出た、狂犬ブラック!」
「せやけど、うちは嫌ちゃうで。みんなで飯食って、笑って、明日も生きる。――それが勝ちや」
熱田の夜は、また潮の匂いに戻る。
まつ屋の灯りだけが、腹を鳴らす者の目印になる。
◉狂犬記 作者・桃 感想と日記
天文二十二年 五月二十日。熱田の「まつ屋」は、今日も戦場だった。
刀も槍も使わないのに、鍋と算盤と声で、三十人の腹を守っていた。
裏メニュー「獄盛」を頼む男が来た。
店が一瞬で“祭”になった。
人は、強いものを見ると元気になる。
まつは強い。笑いながら、働きながら、誰かの明日を作ってる。
姫様の「狂犬兵法」は、たぶん、城より先に町を落とす。
胃袋から。
今日も、熱田が少しだけ温かかった。




