第76話 狂犬お市様の狂犬式忍法帖――伊賀、暖簾分け
西暦1553年5月20日(和暦:天文二十二年 五月二十日) 夕
伊賀国――狂犬堂 伊賀店(仮)/蔵
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夕暮れの伊賀は、山の影が早い。
空が藍に沈むころ、忍びの里は逆に目を覚ます。
灯りは少なく、声は低く、足音は消える――が。
「……めっちゃ派手な暖簾やないか」
百地丹波が、のれんを持って立ち尽くした。
端に小さく「狂犬堂」と入り、中央にどん、と屋号。
百屋――。達筆で、やたら強い。
「ええやろ! “百”は最強や!」
百地さくら(17)が胸を張る。
背中に夕焼け。顔はまだ十四、いや十七のはずなのに、言うことが妙に商人だ。
「派手すぎると目立つ。忍びは目立たないのが基本だ」
藤林長門が低く言うと、藤林あやめ(17)が即座に返した。
「父上、それ昭和の忍者観や。今は“目立って紛れる”が基本やで?」
「……昭和とは何だ」
「知らんでええ」
服部半蔵は暖簾を指で撫で、にやりと笑った。
「……悪くない。のれんは旗だ。旗が立てば、人が集まる」
「父上、意外と商売好きよな」
服部せつな(17)が笑うと、半蔵は咳払いで誤魔化した。
「し、忍びは金が要る。道具も、薬も、飯も。……景気が良いのは正義だ」
三人の上忍が揃うと、伊賀の空気が一段締まる。
だが今は、締まる前に――荷が山だ。
蔵の中には、木箱、俵、樽。
狂犬堂の商品が、全国へ散る前に“いったん全部ここに集まる”仕組みになっている。
化粧品、薬、煎餅、団子の粉、織物の小包、酒の試し樽――。
そして、最後に置かれた箱には、朱印の押された雑な紙が貼ってあった。
「……これ、姫様の字やな」
あやめが目を細める。
達筆なのに雑。意味がわかるのに圧がある。狂犬式。
紙にはこうある。
『伊賀を蔵とせよ。
諜報行商人は、売り歩き、戻り、補充し、また旅立て。
偽物を見つけたら――潰せ。
やり方は丸投げ。
以上。狂犬』
「丸投げ、って書いてある……」
せつなが紙をひらひらさせて、笑うしかない顔になる。
「姫様らしいわ」
さくらは嬉しそうに言った。
あの狂犬お市様が“伊賀を蔵にする”と言った。
それは、伊賀の地位が上がるということだ。
丹波が腕を組む。
「で、具体策だ。偽物対策と、諜報と、商売。全部やる。……どう回す?」
さくらが、指を三本立てた。
「一、蔵に“印”を入れる。箱の木目に、狂犬の爪痕みたいな刻印。真似しにくいやつ」
「あー、木口に切り込み入れるやつか。職人泣かせやけど、真似も泣くな」あやめ。
「二、行商人に“合言葉”。店で補充するときだけ使う。合言葉違えば、補充しない」
「三、偽物を掴ませる“囮”。買い手を装って流通経路を辿る」
半蔵が頷く。
「いい。囮はせつなが向いてる。人当たりが良い」
「父上、それ褒めてる? 私が一番騙されそうって意味ちゃう?」
「褒めてる」
あやめが腕まくりした。
「行商人はどうする? 今の伊賀の若い衆、金が入るって聞いたら走り出すで」
「走らせればいい。走る先で情報を拾わせる」丹波。
「ただし、欲で暴走したら忍びの品が落ちる。規律が要る」
さくらが笑って、蔵の隅の帳面を叩いた。
「規律は“給金”で作る。売上の三割は本人、二割は蔵の維持、残りは里へ。家族に回れば、皆ちゃんと働く」
三人の上忍が一瞬沈黙した。
忍びの里で、分配の話がここまで明瞭に出ることは珍しい。
「……娘が商人みたいになっとる」丹波。
「娘が現実的すぎて怖い」長門。
「娘が可愛いので正義」半蔵。
「最後だけ意味わからん!」
せつなが突っ込み、あやめが肩を震わせて笑う。
――そして、伊賀の蔵は動き出す。
男も女も関係ない。
化粧品を持って髪結いとして入り込み、
薬を持って“手当て”を口実に話を聞き、
煎餅を配って子どもの噂を拾い、
団子を焼いて井戸端を温める。
商品が歩けば、情報が集まる。
情報が集まれば、偽物も潰せる。
偽物を潰せば、信用が上がり――売上も上がる。
「……狂犬堂って、武器より強くない?」
せつながぽつりと言うと、長門が低く笑った。
「銭と信用は、槍より刺さる」
丹波が暖簾を掲げ、蔵の前に立つ。
「よし。伊賀店、開けるぞ」
さくらが満面で頷く。
「あしたからや。日本全国、行商人、旅立たせる」
あやめが鼻で笑う。
「まずは近江方面に流す。京へ繋がる道は情報も濃い」
せつなが、のれんの端をつまんで言った。
「父上たち、姫様に恥かかせんように働こな。……“墓から出てくるぐらい儲けよ”って言われたやろ?」
三人の上忍が同時に咳払いした。
「……娘に言われると刺さる」丹波。
「……教育の成果だ」長門。
「……娘が可愛いので正義」半蔵。
「それまだ言う!?」
伊賀の夕は深まり、蔵は明るくなる。
忍びの里は、今夜から――商いの里にもなる。
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◉狂犬記 作者・桃 感想と日記
天文二十二年 五月二十日、夕。
伊賀に“狂犬堂伊賀店”が立つ。蔵ができる。物流ができる。情報が集まる。
忍びが金を持つと、里は強くなる。
腹が満ちると、心も荒れにくい。
――姫様が言ってた。「銭が人の幸せの基礎」って。
でも、伊賀の親父三人が一番幸せそうだった。
娘にツッコまれて、咳払いして、また「可愛いので正義」って言う。
忍びって、こんなに親バカだったっけ。
偽物が出る前に、潰す。
捕物帖は、蔵から始まる。




