第75話 狂犬お市様の狂犬式捕物帖 ――火付盗賊改役・岡部元信――
西暦1553年5月17日(和暦:天文二十二年 五月十七日) 朝
尾張国・鳴海城下町/狂犬堂 鳴海店・蔵
朝の鳴海は、潮と土と、商いの匂いが混じる。
城下が目を覚ます前に、蔵が目を覚ます。……狂犬堂の蔵は特にな。
(蔵は腹だ。腹を荒らされりゃ、城下が痩せる)
岡部元信は、蔵の影――軒下に立った。
同心たちが、壁際に散る。人数は少なめ。朝から大騒ぎすると、町が荒れる。
「……手口は?」
岡部が問うと、同心の一人が頷いた。
「戸口の縄が切れておりました。刃物ではなく、細い鋸のような……」
「静かに切る道具だな。音を嫌う。――“いたち”らしい」
盗賊の名は、町でそう呼ばれている。
すばしこく、痕を残さず、狙いは銭より“品”。
岡部は、蔵の扉に耳を寄せる。
――トン。
――カサ。
(いる)
蔵の中から、木箱を擦る音がした。
箱の中身は、狂犬堂の主力だ。薬、化粧、煎餅、団子の粉……そして新作の試作。
城下の女たちが並んで買う品を、盗賊は狙う。
「囲め。逃げ口は三つ。……全部塞ぐぞ」
岡部が指を折る。
「裏の小窓、梁の抜け、表の戸。
同心一、裏へ。
同心二、梁の下――上を見るな、音が出る。
残りは、俺と正面だ」
同心たちが、息を殺して動く。
捕物は、刀より足と目だ。
戦場なら槍が物を言うが、城下の捕物は“気配”が物を言う。
――そして、間。
「……今だ!」
岡部が、蔵戸を蹴破った。
「火付盗賊改役、岡部元信! 盗人ども、観念せい!」
蔵の中――黒い影が二つ、三つ。
盗賊いたち。顔は布で隠し、手には小袋。中身は粉か薬か。
「ちっ!」
盗賊の一人が、箱を放り投げる。
同心が避けた瞬間、別の盗賊が走る――正面だ。
岡部は間合いを詰め、柄で顎を打つつもりで踏み込む。
だが、盗賊は低く滑った。
まるで床を泳ぐように。
「……犬かき衆の真似かよ」
岡部の小声に、同心が反射で返す。
「真似でも速いです!」
「黙れ、喋ると逃げられる!」
――遅かった。
盗賊が懐から小さな筒を投げた。
パッ、と白い粉が舞う。
「目潰しか!」
岡部は袖で払う。だが目の端が焼けたように痛い。
次の瞬間、屋根の上で瓦が鳴った。
「梁だ! 上へ行った!」
同心が叫び、岡部が舌打ちする。
「……囲んでる。逃げられる道理は――」
そう言いかけた時、裏の小窓が、軽く鳴った。
――カン。
(囮か)
岡部は、同心に手で合図した。
「裏へ走るな。……待て。待って刺せ」
捕物は焦った方が負ける。
町人が見ている。乱暴は“治安の敵”になる。
だが、相手は“いたち”。
焦らせるのが上手い。
同心が一瞬だけ裏へ目をやった。
その一瞬で、屋根の影が二つ、朝の靄へ溶けた。
「……逃げたな」
岡部は、白い粉を指で摘み、鼻先で嗅ぐ。
「石灰……いや、貝殻粉か。尾張の海の粉だ。
――知多の者か、知多と繋がった者だ」
同心が歯噛みする。
「申し訳……!」
「謝るな。捕まえ損ねたのは俺の落ちだ。
だが、これで“いたち”が動いたのは確かだ」
岡部は蔵を見回す。
荒らされたが、持っていかれたのは“選ばれた品”だけ。
銭箱は手付かず。
「狙いは、銭じゃない。
“狂犬堂の中身”だ。偽物を作るか、評判を潰すか……」
同心が唸る。
「偽物が出れば、町が病みます」
「そうだ。捕物は、ここからが本番だ」
―――――――――――――――――――
同心の胃は、朝から痛かった。
理由は二つ。
一つは、さっき食った味噌汁が熱すぎたこと。
二つ目は、盗賊相手に“逃がすな”と言われると、心臓が勝手に走り出すこと。
(……俺の心臓、犬かき衆より速い)
蔵の裏に回った同心は、土の匂いを踏んだ。
鳴海の道は、雨が降ると粘る。だから足音が消える。捕物に都合がいい。
……盗賊にも、都合がいい。
「裏の小窓だ。ここが逃げ道……」
同心は小窓の縄を見た。
綺麗に切れている。刃物の筋が浅い。
(……上手い)
同心は、気配を殺す。
“いたち”は人の気配を嗅ぐ、と噂だ。
笑い話みたいだが、笑えない。実際、あいつらは速い。
蔵の中から、岡部様の声が聞こえる。
『今だ!』
次いで、蔵戸が破れ、怒号。
同心は、裏の小窓へ目を凝らした。
――来る。
来たら、捕る。
逃がさない。逃がすな。逃がすな。
……その時。
裏の小窓が、軽く鳴った。
同心の背筋が跳ねる。
(来た!)
だが、岡部様の合図が飛ぶ。
『走るな。待て』
(待て……!? 待てって、心臓が無理です!)
同心は歯を食いしばり、槍を構えた。
槍の先が、小窓の影に吸い込まれる。
――カサ。
小窓の外で、草が擦れた。
同心は、一瞬だけ、横を見た。
蔵の屋根――瓦が鳴る。
(上!?)
その瞬間、自分でも分かった。
――やった。目を逸らした。負けた。
小窓の影が、すっと消えた。
足音はない。だが、確かに逃げた。
「……っ」
同心は唇を噛んだ。
腹の底が冷える。
捕物は勝って当たり前、負けたら叱られる。
だが、岡部様は怒鳴らない。
蔵の中へ戻ると、岡部様が粉を指で弄んでいた。
「貝殻粉……」
「申し訳ございません! 私が――」
「よい。目を逸らしたのは、俺も同じだ。
“いたち”は、そうやって獲物の目を動かす」
岡部様は、箱の隙間を調べた。
盗まれたのは、薬と化粧と、試作品。
団子粉は残っている。
(……盗賊、甘い物には興味がないのか)
(いや、違う。甘い物は、真似しやすいから残したのか)
町人が、蔵の外で騒ぎ始めた。
「また“いたち”か!?」
「狂犬堂の品が減ったら困る!」
「病人が薬を買えんぞ!」
同心は、町人に向けて声を張った。
「静まれ! 火付盗賊改役が動いておる!
蔵の品は、町へ回る! 噂を広げるな!」
だが町人は噂を食う。
食うから、生き延びる。
戦国の城下は、情報が米と同じ価値を持つ。
岡部様が、町人の前へ出た。
「聞け。今日からしばらく、狂犬堂の“偽物”が出るやもしれん。
怪しい品を見つけたら、買うな。触るな。
見た目が同じでも、匂いと手触りが違う。
――そして、売る者の目が違う」
町人が息を呑む。
「岡部様、捕まるのか……?」
「捕まえる。逃げた足跡は、必ず銭へ繋がる」
同心は、その言葉で少しだけ胃が軽くなった。
……味噌汁の熱さは、まだ残っていたが。
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西暦1553年5月17日(天文二十二年 五月十七日) 夕
鳴海城
岡部元信は、城へ上がり、報告を済ませた。
言葉は短く、要点だけ。
「狂犬堂鳴海店、蔵へ盗賊いたち侵入。
捕縛寸前、目潰しにて逃走。
貝殻粉の使用。狙いは薬・化粧の類。偽物の恐れあり。
城下へ注意を回し、追跡を続けます」
返答は、簡潔だった。
「――よい。続けよ」
それだけ。
だが、その一言が、岡部の背を支えた。
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◉狂犬記 作者・桃 感想と日記
天文二十二年 五月十七日。
鳴海、朝から捕物。盗賊いたち、やっぱり速い。腹立つほど速い。
でも岡部様は怒鳴らない。
同心は胃が痛い(たぶんいつも)。
町人は噂で腹を満たす。
捕物帖って、戦より怖い。
戦は敵が見える。
捕物は、敵が“町の顔”をしている。
次は捕まる気がする。
……いや、捕まってほしい。こっちの胃が先に潰れる。




