第73話 狂犬お市様の狂犬式医療
西暦1553年4月10日(和暦:天文二十二年 四月十日) 夕刻
――鳴海城――
お市様は、週の半分を鳴海城で過ごしている。
武の訓練と医の務め、その合間に政。
城は今日も、静かに、だが確実に忙しい。
八千代と千代に与えられた部屋は――
お市様の隣だった。
「……ここ、ほんまに、部屋……?」
八千代が、思わず小声で呟く。
部屋の半分は、書庫だった。
棚には、漢籍、医書、兵法書、薬草の写本、聞いたこともない異国の書。
床の一角には、怪しい道具――いや、医療器具。
干された薬草、瓶詰めの粉末、香のような匂い。
「お母ちゃん……ここ、こわい?」
「……こわいけど、安心やな」
千代は、棚の隙間から覗く絵図をじっと見ている。
骨、臓、血の流れ。
だが、どれも丁寧に描かれ、乱暴さはない。
「ここは……人を治す部屋や」
八千代は、そう言って千代の頭を撫でた。
一方――
お市様は、この部屋では飯を食べない。
常に、城の台所の隣。
女中たちが食事を取る部屋に、専用の席が一つだけ設けられている。
「温かいものは、近い方がよい」
それがお市様の流儀だった。
今日も、夕餉の支度が進む城内。
味噌の匂い、煮物の湯気、米の甘い香り。
八千代は、ふと気づいた。
「……千代」
「なに?」
「腹、減ったな」
「うん! 減った!」
二人は顔を見合わせ、少し笑う。
そして、部屋の戸をそっと開けた。
「……台所へ、行くぞ」
「ちゃんこ、ある?」
「あるかもしれん。なかったら、叱られるかもしれん」
「えー」
「でもな、腹は減る。生きとる証や」
廊下に出ると、城は夕の気配に包まれていた。
足音、笑い声、鍋をかき混ぜる音。
角を曲がった、その時。
「おや」
涼やかな声。
二人が振り向くと、そこにいたのは――
お市様だった。
白衣のまま、袖を少しまくり、手には木の器。
中には、温かい汁。
「腹が減った顔をしておる」
「……はい」
八千代は、思わず正直に答える。
「よい。働く者は腹が減る。学ぶ者も腹が減る」
「……叱られませんか」
「叱る? なぜじゃ」
「勝手に、台所へ……」
「勝手ではない。ここは城じゃ。城は人の腹で動く」
千代が、きらきらした目で言う。
「お姫さま、ちゃんこ?」
「今日は、味噌汁と芋じゃ。ちゃんこは明日」
「やった!」
お市様は、二人を連れて台所の隣の部屋へ行き、女中に声をかける。
「この二人、今日からここで食え。量は、少なめから始めよ」
「は、はい!」
「八千代は、今夜は早く寝ろ。咳は止まったが、無理は禁物」
「……ありがとうございます」
千代は、椀を両手で抱え、湯気に顔を近づける。
「……あったかい」
「それが、生きるということじゃ」
お市様は、いつもの席に座り、自分の膳を受け取る。
周囲は女中たち。身分も立場も関係ない。
「……お市様」
八千代が、勇気を出して聞いた。
「はい」
「なぜ……私たちを、隣の部屋に……?」
「近い方が、すぐ診られる」
「それだけ……ですか」
「それだけじゃ、足りぬか」
「い、いえ!」
お市様は、少しだけ微笑った。
「千代は、よく見る目をしておる。八千代は、手が温かい」
「……」
「医は、技だけでは足りぬ。人を見る。触れる。腹を満たす」
「……はい」
「逃げ場も、泣き場も、ここにあればよい」
千代が、口いっぱいに芋を頬張りながら言う。
「ここ、好き!」
「それは、よかった」
城の夕餉は、静かに進む。
外では、春の風。
城の中では、湯気と命。
狂犬と呼ばれる姫は、今日もまた――
戦ではなく、医で、人を抱え込んでいた。
◉狂犬記 作者・桃(感想と日記)
天文二十二年 四月十日。鳴海城の夕餉は、いつもより静か。
八千代殿と千代殿が、初めて城の台所で飯を食べた日。
姫様は相変わらず合理的で、「近い方が診られる」と言って部屋を決めたが、
その“近さ”は、物理だけではないと、今日よく分かった。
城の台所で、女中と並んで飯を食う姫。
それを当たり前のように受け入れる周囲。
狂犬家臣団はブラックだが、城の胃袋は温かい。
千代殿の「ここ、好き!」は、今日一番の破壊力だった。
明日はちゃんこ鍋。
胃薬を用意しつつ、私は書く。
逃げ場がある城は、強い城だと、今日また思った。




