第72話 狂犬お市様の狂犬式医療
西暦1553年4月7日(和暦:天文二十二年 四月七日) 春
――熱田・狂犬診療所(熱田湊の裏手)――
利家と慶次が、朝から晩まで――いや、晩から朝まで修行してる頃。
お市様はというと、週の半分は熱田におられた。
鳴海城の馬廻りが「豊臣号、今日も走ります!」と叫べば、城下の子どもが「うおおお!」とついて走る。
尾張の春は、桜と土と、走る馬の匂いがする。
そして熱田の朝は、潮の匂いと――
「……あ、あかん。眠い」
「姫様、さっきまで診てた人、背中の竹槍、抜けました?」
「抜けた。抜いた。縫うた。はい次」
診療所の中は、相変わらず忙しい。
畳にずらりと座る患者、湯気が立つ薬湯、干した薬草、木の皿、針箱、包帯代わりのさらし。
お市様は、白衣っぽい麻の上衣を着て、髪をきっちり結い、指先まできれいに洗っている。
戦場で鏑矢を放つ時と同じ目で、今は人の脈を診る。
――そして今日は、いつもの「求人票」に、さらに追記が増えていた。
「……姫様、また張り紙増えてます」
診療所の者が、そっと壁を指す。
そこには、達筆すぎて雑な字で、朱印まで押してある。
【熱田・鳴海 診療所 人材募集】
経歴不問
女性のみ(医療従事するゆえ)
年齢:若い方がよい(産婆は別途)
条件:わらわの医療秘書
休み:わらわが寝る時
給料:わらわの気分
住み込み(わらわの近く) 飯つき(わらわと一緒に食べる)
以上 狂犬 お市
世界一美しい故 ゆるせ
「……姫様、最後いります?」
「いる。大事じゃ。採用率が上がる」
「採用率ってそういう……」
「美は正義じゃ。ほれ、わらわ、世界一美しい」
「自分で言うやつ初めて見ました……」
「今日が初めてではない。昨日も言った」
「昨日も言いましたか……」
診療所の者たちは、もはや慣れている。
熱田の町では、これを見て笑いながら応募に来る者がいる。
「休み、姫様が寝る時って……何時です?」
「知らぬ。わらわが寝る時じゃ」
「給料、姫様の気分って……」
「気分は良い。たぶん」
「たぶん!?」
そんな「狂犬式求人票」を、ひとりの女がじっと見ていた。
手を引いているのは、小さな女の子。
女は疲れていた。だが、目がまっすぐだった。
子どもは、母の袖をぎゅっと握り、半歩だけ後ろに隠れる。
海風で髪が少し乱れ、そのまま春の光を受けている。
「……ここ、ほんまに、タダで診てもらえるって……?」
女が小さく呟いた。
その声に、奥から「はい次ー!」と張りのある声。
「次。――ん? そこの二人、並べ。遠慮するな」
お市様が顔を上げる。
その瞬間、診療所の空気が一段、凛とした。
「名は」
「八千代でございます。二十六……」
「子は」
「千代。八つです」
千代が、こくりと頭を下げた。
「何があった」
お市様は、言葉を選ばない。だが、責めない。
八千代は、息を吸い、吐いた。
潮の匂いに混じって、過去の匂いが漂う。
「……夫が、戦で……戻りませぬ。武士の妻でございました。身寄りも薄うなり……噂を聞いて、ここへ」
「噂?」
「狂犬様が、病人を見捨てぬ、と」
「……ふむ」
お市様は、千代の目を見る。
千代は怖がっているのに、逃げない。強い子だ。
「千代。どこが痛い」
「……どこも、痛くない……でも、お母ちゃんが、夜、咳して、眠れん」
「八千代、咳か」
「はい。胸が重うて……」
「診る。座れ」
お市様は手早い。
脈、舌、目の色、呼吸、背中の音。
診療所の者が湯を用意し、薬草を取り、筆を走らせる。
「……冷えと疲れじゃ。胸の奥に、春の湿りが溜まっておる」
「し、湿り……」
「海が近いからの。熱田は潮の町じゃ。身体も潮に負ける」
お市様は薬包を組みながら、ぽつりと言う。
「八千代。働く気はあるか」
「……ございます。千代を食わせねばなりませぬ」
「よい。採用」
「えっ」
「はやっ」
診療所の者が思わず声に出す。
「まだ求人条件、説明してませんよ姫様!」
「見たであろう。壁に書いてある」
「休み:姫様が寝る時ですよ!?」
「寝る時は寝る」
「それが一番あいまいなんですって!」
八千代は、困った顔で笑った。
泣く前の笑いだ。
「……それでも、よろしゅうございます。ここは、怖くない匂いがします」
「匂い?」
「はい。……助けてくれる匂い」
お市様は、一瞬だけ目を細めた。
「千代は寺小屋へ入れる。飯は無料じゃ。ちゃんこ鍋が出る」
「ちゃんこ……?」
「力がつく。病にも強くなる。未来にも強くなる」
「……千代、ちゃんこ、好き!」
「よし。決まり」
診療所の者が、すかさず確認する。
「姫様、住み込み“わらわの近く”って……どこに住ませるんです?」
「近くじゃ。わらわの近く。歩いて三歩」
「三歩!?」
「護衛が楽」
「そこは合理なんですか!」
お市様は、薬包を八千代へ渡し、最後に言った。
「八千代。医療秘書とは、手伝いではない。学ぶ者じゃ。字を覚えよ。薬を覚えよ。人の痛みを覚えよ」
「はい……!」
「給料は、わらわの気分じゃ」
「はい……!」
「今、気分が良い。――千代、甘いものは好きか」
「すき!」
「よし。狂犬印煎餅屋へ行け。診療所の名で渡せ」
千代の顔が、ぱっと明るくなった。
八千代は、思わず手で口を覆う。涙が落ちそうになるのを、必死でこらえる。
「……泣くな。泣くと喉が腫れる」
「……はい」
「泣くなら、ちゃんこ食ってから泣け」
「……はいっ」
診療所の者たちは、今日もまた思う。
この姫様は、戦も医療も、言葉も、全部“狂犬式”だ。
無茶だし、雑だし、早いし、怖いし――
でも、最後に残るのは、いつも優しさだ。
◉狂犬記 作者・桃(感想と日記)
天文二十二年 四月七日。春の潮の匂いが強い日。
今日は熱田の診療所で、新しい人材が来た。八千代殿と千代殿。
姫様は求人票の条件が相変わらず狂犬で、「休み:姫様が寝る時」「給料:姫様の気分」など、読むだけで胃が痛い。
だが、八千代殿の目は強かった。千代殿は、母の袖を握る手が小さく、胸がぎゅっとなった。
姫様は、診断が早い。薬を包む手も早い。決断はもっと早い。
「採用」と言った瞬間、診療所の皆が「えっ」となった。
私はその「えっ」が好きだ。姫様の“速さ”が、人を救うから。
千代殿が「ちゃんこ好き!」と言った時、姫様が少しだけ目を細めた。
世界一美しいだけではない。世界一、心が折れにくい。
今日も狂犬家臣団はブラックだが、救われる人が増えるなら、まあ……胃薬を増やせばよい。
明日も張り紙は増える予感がする。怖い。けど、書く。私は祐筆・桃。逃げられぬ。




