67話 狂犬お市様の狂犬式知多開発とブラック家臣団 その5
西暦1553年1月27日 夜(永禄六年・正月下旬)
尾張国・鳴海城 評定の間
評定は――まだ終わらない。
外はすっかり闇。
評定の間では、男衆が慌ただしく行灯を運び、奉行が火打石で火を起こし、皆で灯りをともした。
薄い光が柱を照らし、紙の山が影を伸ばす。
その影の数だけ、仕事がある。地獄である。
(胃が……胃が……)
藤吉郎は内心で呻いた。
眠気は親子丼で一度死んだが、次に来るのは“胃痛”だ。
そして、その中心に座る姫様は――
やはり世界一美しい。
勝家が推し活する意味は分かる。死ぬほど分かる。
だが直接関わる我ら狂犬家臣団は、命が縮む。胃が縮む。
その時――
「チリン」
鈴が鳴った。
途端に、襖の向こうがわさわさと動き、お手伝いの女性たちが御膳を運び込んできた。
置かれたのは、飯ではない。
上には――お銚子が三本。
そして黒い影……干物のようなものと、白く透ける何か。
「……イカ? いや、何これ?」利家が首を傾げる。
「肴の気配がする……怖い……」藤吉郎がぼそっと言う。
「お酒? 今から?」まつが目を丸くする。
寧々は頷いた。「今からや。姫様、夜になると元気出るタイプや」
お市様は御膳を見下ろし、上機嫌に宣言した。
「熱燗ゆえ、火傷せぬように気をつけよ」
「まずそこ心配なんすか!」利家が突っ込む。
お市様は指を折って説明する。
「あては、干しイカ」
「ほう……」
「エイのヒレ炙ったやつに、唐辛子醤油」
「……急に大人の味!」
「焼海苔じゃ」
「海のものばっかり!」
お市様は、にこっと笑った。
「知多の名物にする」
「名物って、まず我々の胃が名物になりそうっす……」
「よい胃袋は鍛えられる」
「鍛えたくない!」
そして――姫様は、熱燗をぐいっと飲んだ。
首筋に灯りが落ち、白い肌が艶めく。
美しい。眩しい。罪。
(勝家殿……推し活してる場合じゃないです。助けてください)
藤吉郎は心で合掌した。
だが、助けなど来ない。来るのは書類である。
お市様が、ふっと目線を移す。
「……さて」
その一言で、空気が締まる。
酔いかけた家臣団の背筋が伸びる。条件反射である。
寧々が、紙の束を抱えて立った。
束の中には朱印入り。相変わらず達筆(雑)。
しかも――図が描いてある。
「……図がある時点で嫌な予感しかしない」利家が小声。
「言うな、利家。死ぬ」藤吉郎も小声。
まつが囁く。「うち、図面見るの好きやけど、姫様の図は“命令書”や」
お市様は、肴をつまみながら、さらりと投げた。
「熱田を預かる寧々を楽にして、さらに稼いでもらう!」
「楽にして、さらに稼ぐ!? 矛盾がすごい!」
「矛盾ではない。構造じゃ」お市様は胸を張る。
「寧々の実家、浅野を根こそぎ採用!」
寧々が「えっ」と声を漏らした。
「……根こそぎって、うちの親戚、逃げるで?」
「逃げるな。採用じゃ」
「採用って、逃げる対象になってるやん!」
お市様は、ぐいっと二口目を飲み、熱田の方角を指す。
「熱田を任すゆえ、死んでも死にきれぬ程利益をあげよ」
「死んでも死にきれぬ、って二回殺してますよね!?」利家が叫ぶ。
「熱田は本店じゃ。気合いが違うぞ」
「本店が怖いっす!」
「寧々、任せた」
「丸投げきたーーー!!」寧々が叫んだ。
お市様は、鈴の音より軽い口調で言う。
「つぎ!」
「つぎ!?」
「寧々。屋号を授ける」
寧々が目を見開く。
まつがニヤニヤする。
藤吉郎は胃が痛い。
「木下屋。木下寧々じゃ」
「……え、屋号って、そんな簡単に配るものなん?」
「わらわの下では簡単じゃ」
「天下の前に屋号が天下になってる」
お市様は図面を指で叩いた。
「狂犬織の反物、狂犬絹織物を基本に――」
「織物……」
「女性の着物、男性の着物を作成し、縫い子を採用せよ」
「縫い子……うち、忙しなる……」
「忙しくなるのは良いことじゃ」
「良くない!」
まつが口を挟む。
「採用条件は、うちの“まつ屋”と同じってことやな?」
「そうじゃ。病や戦で夫を失った女、居場所のない者を救う」
「そこは、姫様ほんまに優しい」
「優しさは銭で持続させる」
「出た! 狂犬兵法!」
お市様は、さらに図面をめくった。
そこには――家臣団が見たことのない形が描かれている。
「服については、図にある女性用下着」
「……え?」
「着物は春夏秋冬。男も同じ」
「……え?」
「また、夏に川や海で泳げるよう、女性の水着を作れ」
「……水着!?」
評定の間がざわつく。
奉行がむせた。利家が真っ赤になった。藤吉郎が天を仰いだ。
「姫様! この時代に“水着”って概念ないっす!」
「だから作るのじゃ」
「作る発想が狂犬!」
「泳げば鍛錬にもなる」
「鍛錬までセット!?」
お市様は、熱燗を一口、静かに飲んでから、にたりと笑った。
「よいか。ブランド名は“寧々”じゃ」
「……え、うちの名前?」
「よいな。寧々を看板に押し出せ」
「恥ずかしい!」
「恥ずかしがるな。銭が儲かってしょうがないぞ」
藤吉郎が手を挙げた。
「姫様……それ、堺や京に売るって……物流は?」
「狂犬堂化粧品と合わせて売る。行商と水運で回す」
「セット販売……強い……」
「銭の潮は、一本で繋がっておるからの」
寧々は膳の上の焼海苔を握りしめ、覚悟を決めたように言った。
「……分かった。木下屋、やる。やるけど」
「うむ」
「姫様、縫い子は増やす。けど、休みもくれ」
「休みたければ、銭を働かせよ」
「出た! またそれ!」
お市様は満足げに頷き、最後に問う。
「質問は? あるか?」
誰もが口を閉ざす。
質問したら、仕事が増える。
狂犬家臣団は、その真理を学んでしまった。
しかし――まつが、にやっと笑った。
「姫様。寧々ブランドの水着、色は?」
「……まつ!?」寧々が悲鳴。
「色は、後で決める」お市様が即答。
「決めるんかい!!」寧々が叫ぶ。
「もうやめて! 胃が痛い!」藤吉郎が叫ぶ。
「胃は鍛えられる」
「鍛えたくない!!」
御膳の周りは、笑いと悲鳴と、熱燗の湯気。
皆、いい感じに酔い始めた――はずなのに、仕事の匂いが濃い。
お市様は鈴を置き、次の方へ顔を向けた。
「つぎ――」
その一言で、全員の背筋が固まる。
「さくら、あやめ、せつな」
三人が、同時に姿勢を正した。
伊賀の血が、すっと冷える。
そして評定の間は、また静かになった。
◉狂犬記・作者 桃(祐筆)/日記
夜の評定、熱燗が出た。
干しイカと、エイのヒレ。唐辛子醤油。焼海苔。
どれも旨い。だが、旨さの分だけ、姫様のテンションが上がる。
寧々殿に“木下屋”の屋号。
反物と絹織、縫い子の採用。
さらに“水着”の図。
この姫は、時代を跳び越える。恐ろしい。
我ら家臣団は酔い始めた。
しかし胃は痛い。
酒で麻痺させるのか、仕事で壊すのか――
たぶん両方だ。




