第66話 狂犬お市様の狂犬式知多開発とブラック家臣団 その二
西暦1553年(天文二十二年)一月二十七日 昼/冬
尾張国・鳴海城 評定の間
――ちゃんこ鍋のあと。みな、眠い。
ちゃんこ鍋を食うと、人はやさしくなる。
やさしくなると、気が緩む。
気が緩むと――狂犬が来る。
評定の間には、狂犬家臣団の幹部と奉行衆。
岡部も、水野も、今川から来た鳴海同心の顔役も、みな腹いっぱいで、目が半分。
藤吉郎も例外ではなく、脳みそが“雪の溶けた田んぼ”みたいになっていた。
(今日は……平和かもしれん)
そう思った瞬間。
――トントン、トントン。
紙束を揃える音。
それは眠気に効く。最強に効く。
上座。
お市様が、水野に渡した時より明らかに分厚い書類の束を、整えた。
整えたというより、紙が震えて整列した。
「藤吉郎」
「は、はいっ!」
お市様はにこにこしながら、その束をズドンと渡した。
中には朱印入りの書付。しかも達筆すぎて――雑。
文字が美しすぎて、逆に読みづらいという地獄。
利家が覗き込んで、即座に結論を出した。
「読めん」
「読め」
「姫様、これは“芸術”であって“文字”やない」
「利家、噛めば味がする」
「紙は食うたら腹くだすやろ!」
くすくす笑いが起きる。
だが、お市様は笑顔のまま、扇を藤吉郎へ向けた。
「そちは、さくら、あやめ、せつなと共に、諜報を担い、戦にも参加しておる」
「基本、それは今後も変わらぬ」
「ただ――忙しいだけじゃ」
「“だけ”が一番こわいんですけど!?」
藤吉郎が即ツッコミしたが、姫様は平然として続けた。
「そちの給与は、インセンティブじゃったな」
「ただの瓢箪は百貫」
「銀の瓢箪は千貫」
「金の瓢箪は一万貫」
評定の間の空気が変わる。
同心の目が、銭の形になる。
奉行の指が、そろばんを探し始める。
利家の瞳も、金色になる。
「千成瓢箪を目指すのじゃ、藤吉郎」
「……千成……」
「目指せ」
「無茶言わんといてください!」
お市様は扇をぱちりと閉じ、声のトーンだけ少し落とした。
「さて」
「水野の話を聞いていた通り――水野が頑張ってきた作物を、狂犬堂が買う」
「加工し、生産し、売る」
「伊勢湾は暖簾分けにより、すでに全部“わらわの海”じゃが……」
そこで、姫様は口元に笑みを濃くした。
「たりぬ」
その一言で、みなの背筋が伸びた。
眠気が一斉に逃げる。
ブラック家臣団、始業。
「安宅舟、二十艘を建造せよ」
「伊勢湾から堺へ行く交易」
「そして、駿府までの交易を――独占する」
岡部が思わず唾を飲んだ。
「……舟二十は、木も鉄も人も、相当の……」
「足らぬなら、持って来い」
「……はい」
姫様は朱印状を持ち上げ、机に置いた。
朱印が押される前から、もう命令の重さがある。
「朱印状じゃ」
「九鬼水軍を調略せよ」
「九鬼嘉隆を家臣団に入れる」
「年収一万貫じゃ」
「年収一万貫が軽く聞こえるの、バグですわ!」
利家が言い、藤吉郎が肘で黙らせる。
「つぎ」
「川並衆を調略せよ」
「蜂須賀小六を家臣団に入れる」
「年収一万貫じゃ」
奉行衆がひそひそする。
(調略って言うけど、ほぼ“買う”やな……)
(いや、買った上で鍛えるのが狂犬か……)
姫様は止まらない。
紙束が尽きない。
狂犬は息切れしない。
「つぎ」
「没落大名――武田信虎を調略せよ」
「家臣団に入れる」
「職は、狂犬兵団学校の校長先生」
「年収一万貫じゃ」
藤吉郎の脳裏に、“クセの強い老人が学生をしばく未来”が浮かび、即座に消した。
「つぎ」
「小笠原長時を調略」
「幕府外交奉行」
「年収一万貫」
「つぎ」
「京極高吉を調略」
「朝廷外交奉行」
「年収一万貫」
利家が小声でぼやく。
「姫様、年収の単位、もう“呼吸”みたいに出てくるな」
「止まったら死ぬんや」
「誰がや!」
そこで姫様は、扇の先をふっと宙へ向けた。
「つぎ」
「調略行商人はいま三百じゃが――二千に増やせ」
「東海道、美濃、甲斐信濃、相模」
「情報を集め、操作する」
岡部が思わず言葉を選ぶ。
「……操作、にございますか」
「化粧品と髪結いは、男も女も油断する」
「諜報員も、ぼろ儲けじゃ」
「……(言い方)」
笑っていいのか震えるべきか分からない空気の中、姫様はふっと柔らかく笑った。
「あと――藤吉郎」
「そちの家族を採用するぞ」
藤吉郎の表情が、ほんの少しだけ緩む。
お市様はそこを見逃さず、確信の声で続けた。
「仲と朝日は機織り職人じゃな」
「狂犬堂鳴海を任す。利益を上げよ」
「弟の小一郎は農業と土木がうまい」
「今回の仕事全般に関わる」
「ゆえに、鳴海周辺の農業振興をせよ」
「……はい」
藤吉郎は深く頷いた。
守りたいものを“仕事”に変えてくれる。
それは狂犬の優しさで、狂犬の恐ろしさでもある。
お市様は扇を閉じ、評定の間をぐるりと見回す。
「以上じゃ」
――終わった。
そう思った者がいたら、まだまだ甘い。
お市様は次の刃を、さらりと出した。
「縁故採用は、絶賛募集中じゃ」
「岡部、水野、今川から来た鳴海同心よ」
「これはと思う者がいたら、推薦せよ」
「男女、年齢、貧富の差は無い」
「食わせて鍛えて学ばせて使う」
「性格と根性重視じゃ」
奉行衆が(使う、言うた)と一瞬固まる。
だが、お市様はにこにこと追撃する。
「むさくとも、ほら、藤吉郎を見よ」
「ツルツルピカピカ、わらわの作品ぞ」
「いい男であろう?」
「俺、いつの間に作品になった!?」
「姫様の磨きで光ってるんやろ」
「利家、黙れ!」
笑いが起きる。
笑いが起きると、また腹が鳴る。
だが、姫様が最後に釘を刺した。
「藤吉郎」
「今回の任務、気合いを入れよ」
「狂犬家臣団の未来がかかっておる」
「金の瓢箪四つ分――四万貫の働きぞ」
「数字で言われたら重い!」
「重いから良い」
「良くない!」
そして。
お市様は視線を横へ滑らせた。
次の獲物――いや、次の戦力へ。
「つぎ」
利家の背筋が反射で伸びる。
その横で、存在しないはずの“まつの圧”が空気に出た気がした。
「前田まつ、利家」
お市様の前に、また別の書類の束が――静かに置かれた。
ずしん、と音がした気がした。
藤吉郎は思う。
(これは“評定”じゃない。“配属”だ)
(しかも全部、天下取りの配属)
(……寝る暇があっただけ、さっきまでが奇跡やった)
ちゃんこ鍋の余韻は消えた。
残ったのは、朱印と、紙束と、未来の重み。
つづく。
◉狂犬記 作者・祐筆 桃(日記・感想)
天文二十二年(一五五三年)一月二十七日 鳴海城
ちゃんこ鍋のあと、みな眠そうでした。
だから油断しました。私は反省します。
姫様が紙束をトントンしたら、魂が戻りました。紙の音は目覚ましです。
今日は「瓢箪」がたくさん出ました。
ただの瓢箪、銀の瓢箪、金の瓢箪。
金の瓢箪は一万貫。私の筆が震えました。
藤吉郎様が“千成瓢箪”を目指すと言われた時、利家様の顔が一瞬だけ死人になりました。
九鬼水軍、蜂須賀小六、武田信虎、小笠原長時、京極高吉――
姫様は人を集めて、海をつなげて、銭の道を作って、戦の前に勝つつもりです。
「たりぬ」の一言が、冬より冷たかったです。
でも、家族を雇うと言った時、藤吉郎様の目が少しやさしくなりました。
姫様は、守りたいものを“仕組み”に変える人です。
それが、怖いくらい強い。
次は前田家の書類です。
まつ様が怒ったら、台所が戦場になります。
私、急いで湯を沸かします。なぜか分かりませんが、そういう予感がします。
**狂犬記




