第61話 一年の計略は元旦にあり ――城四つ、町割り碁盤、兄上の胃は正月休みなし――
西暦一五五三年(天文二十二年)一月十日 早朝/冬
尾張・刈谷落城後 → 鳴海 → 熱田 → 清州
■狂犬記/作者:桃(祐筆)
冬の朝は、息が白い。
白いのは息だけで十分なのに――姫様は今日も、世界一の笑顔で世界を壊しに行く。
いや、壊したあとに“整える”のが、狂犬流。
私は祐筆として、今日という日を丁寧に記す。
兄上様の胃が、またひとつ縮む日だ。
■鳴海城 評定の間/焼け跡報告と「碁盤の目」
刈谷落城の報が鳴海へ届くより早く、鳴海の城下では、あの日の火の名残がまだ煤の匂いとして残っていた。
朝。評定の間。
町奉行・岡部元信が、真っ白な顔で座している。背後には、深紅に白の段だら模様――派手すぎる同心服を着た鳴海同心が並ぶ。
“治安維持”の精鋭たちだが、全員の胃が縮んでいるのが分かる。姫様の前だから。
襖が開き、狂犬お市様が入ってきた。
――当然、ニコニコである。
この笑顔が出る日は、だいたい誰かの人生が決まる。
「岡部」
「はっ……!」
「焼けた町の報告をせよ」
「はい。先の騒乱で、城下の南側、三十軒ほどが焼け――」
「死者は」
「……同心が住民を避難させ、幸い大きな死傷は――」
「よくやった」
その瞬間、岡部の目が丸くなる。
同心たちが一斉に息を止めた。
(怒鳴られない…!?姫様に…!?)
お市様は、焼け跡の書付を受け取り、しばし眺め――指先で地図をトン、と叩いた。
「この区画、わざわざ歪んでおるの」
岡部「……は、はい。古い道筋がそのままで」
お市様「ならば直す。鳴海城下は碁盤の目に町割りする」
岡部「…………」
お市様「道を広く取れ。火が延びぬ。港へ真っ直ぐ抜ける筋を作れ。診療所、寺小屋、狂犬堂、港、同心詰所――全部を繋げる」
同心の一人が思わず呟いた。
「……姫様、都みたいなこと言う」
別の同心が頷く。
「鳴海が、京になる……?」
(そして胃が死ぬのも、京並みになる。)
岡部が、震える声で現実を述べる。
「姫様、それは……測量と人足と材木と銭が……」
お市様「銭でやれ」
岡部「……銭で……」
お市様「足りねば出す」
岡部「…………はい」
藤吉郎が端で小声。
「前田殿、姫様の“足りねば出す”は、金の話じゃないんです。覚悟の話です」
利家(新規採用フリーター)が即答。
「覚悟を銭で殴るな」
さくら「殴るのは拳やろ」
利家「それもそうや!」
あやめ「ツッコミ渋滞やめて」
せつな「てか、岡部殿、もう半分白目やで」
お市様は、さらに“丸投げ”を重ねる。
指を折りながら、笑顔で言う。怖い。
「岡部。町割りを考えて書類提出」
岡部「……書類……提出……」
「同心詰所の位置も考えよ。城下、鳴海港、村、漁村。どこに何名。詰所は風呂台所付き」
岡部「……風呂台所、必須なのですね」
お市様「同心が風呂に入れぬ町は荒れる。断言する」
同心たち「それは真理……!」
お市様は、岡部の前に“期限のない仕事”を置くように言葉を置いた。
そして最後に、褒美を置く。
「岡部。鳴海同心」
「はっ!」
「そなたらの頑張り、いたく感服した」
同心たちが背筋を伸ばす。
「今年の賞与は三ヶ月じゃ」
――空気が割れた。
同心A「え、賞与って、銭……?」
同心B「今川にいた頃、賞与って言葉、口にしたら斬られてたぞ」
同心C「俺、泣いていいですか」
岡部「泣くな!士気が上がり過ぎて勤務が増える!」
同心C「増えてもいいです!!」
お市様「増えるぞ?」
同心全員「はい!!!」
(狂犬式の恐怖と報酬で、士気が天を突いた。)
藤吉郎が、内心で頭を抱える。
(……姫様、組織の動かし方が上手すぎる)
(怖い。でも民にとっては、ありがたい怖さだ)
「では」お市様は立ち上がった。
「兄上に報告へ行く」
岡部「姫様、いまから清州へ?」
お市様「藤吉郎、同行せよ」
藤吉郎「はっ!」(反射で正座)
利家「俺は?」
お市様「留守番。刈谷の守りはまだ落ち着かぬ」
利家「え、俺、置いてかれるん?」
お市様「不満か?」
利家「いえ!留守番得意です!」
(前田利家、恐怖の順応が早い。)
■清州へ向かう道中/藤吉郎、知恵を絞る
鳴海を発ち、冷たい風の中を進む。
藤吉郎は歩きながらずっと考えていた。
(姫様は何を狙っている?)
(城四つを正月祝いと言い張るのは“勢い”の演出)
(献上する三城は兄上の面子を立てる)
(大高を自分の訓練場にするのは、次の戦のための“圧”の継続)
(港と町割りは、兵站と銭の回収と治安の固定)
(そして知多の開発は――織田の背骨になる)
藤吉郎が唸る。
「姫様……全部、最初から繋がっておられる」
お市様「当然じゃ」
「当然の規模がでかいです!」
お市様「藤吉郎は小さいの」
「胃が小さいんです!!」
お市様は笑う。
「兄上の胃はもっと小さい」
「兄上は優しいから、縮むんです!」
「ならば、銭を持っていけばよい」
「胃は銭で治りません!」
「治る」
「治りません!」
「藤吉郎、後で試すか?」
「何をです!?」
■途中、熱田/無料診療所(戦の途中で医者)
清州へ向かう途中、お市様は当然のように熱田へ寄った。
当然のように白衣を羽織り、当然のように診療を始めた。
戦国の常識が、ここでだけ崩壊する。
「次、妊婦。次、子供。次、老人」
子供「姫さまー!煎餅!」
お市様「ほれ、狂犬印じゃ」
妊婦「団子も……?」
お市様「ほれ、狂犬印じゃ」
藤吉郎(小声)「姫様、いま城四つ落としましたって報告に行く途中ですよね?」
お市様「だから診る」
藤吉郎「意味が分かりません!」
お市様「民が弱れば、国も弱る。国が弱れば、兄上の胃が痛む」
藤吉郎「結局、兄上の胃が中心なんですね!?」
そこへ、むさい男が腹を押さえて来た。
男「姫様……腹が……」
お市様「有料」
男「えっ」
お市様「むさい」
男「ひどい!」
藤吉郎「線引きが雑すぎます!」
お市様「藤吉郎は、もっと有料」
藤吉郎「俺、基準なんですか!?」
診療所に笑いが起こる。
笑いは、不安を薄める。
藤吉郎は、そこでようやく腑に落ちた。
(姫様は、戦と同じくらい“民の気持ち”を動かす。)
(この人の怖さは、拳より“笑顔”だ。)
■清州城 評定の間/兄上へ正月報告(胃痛の儀)
清州。評定の間。
信長様は座っているだけで胃が痛そうだった。
家臣団も、察した顔で整列している。
(姫様が来る=胃が痛い。)
襖が開いた。
狂犬お市様、堂々入場。
藤吉郎は一歩後ろで、手に汗を握る。
(兄上…耐えてください…)
お市様、開口一番。
「兄上」
信長「……市」
「明けましておめでとうございます」
信長「……おめでとう」
お市様「兄上に正月祝いとして――」
信長「やめろ」
お市様「大高、常滑、緒川、刈谷。落城させましたぞ」
評定の間が凍る。
平手正秀「……は?」
丹羽長秀「……え?」
佐久間信盛「……頭が痛い」
(胃痛が頭痛に伝染した。)
信長様が低く唸る。
「市よ……正月祝いで城四つは、世の道理に反する」
お市様「反するのが狂犬道理じゃ」
信長「道理にするな!」
お市様は涼しい顔で続ける。
「常滑、緒川、刈谷は献上いたします」
信長「……うむ」
「大高の城は訓練で使いますゆえ、無人としますゆえ――頂きたい」
信長「“頂きたい”ではない」
お市様「頂く」
信長「言い切るな!」
さらに畳みかける。
お市様「落とした城下町と港の整備と狂犬堂の出店、町奉行と同心の配置で治安維持――」
信長「……勝手に治める気か」
お市様「治めます」
信長「即答するな!」
お市様「あと知多の開発もおまかせくださいませ」
信長「開発まで!?」
お市様「兄上は背中を押してくれればよい」
信長「押したら落ちるわ!」
信長様は怒鳴っている。
でも、怒鳴る余力があるのは、家族としての強さだ。
厳しいが、優しい。
藤吉郎は、その矛盾が当主という立場なのだと知っている。
お市様が、さらっと爆弾を落とす。
「また、水野を簀巻きにしてつれてきたゆえ、ご容赦を」
信長「容赦とは」
お市様「水野は兄上の下働きか、わらわの下働きか、本人に選ばせましょう」
信長「選ばせるな!」
家臣団がざわつく。
平手「選択制の簀巻き……」
丹羽「胃が……胃が……」
佐久間「頭が……頭が……」
お市様は最後に、にこっと“決定打”。
「あっ」
信長「……何だ」
お市様「ことしの税は十万貫、もってきましたぞ」
空気が変わる。
銭は、戦国の麻酔である。
信長様の目が一瞬だけ、当主の目になる。
怒りを飲み込み、結果を受け取る目。
信長「……市」
お市様「はい」
信長「無茶はするな」
お市様「兄上も胃を大事に」
信長「おぬしのせいだ!」
お市様は、勝ち誇らず、ただ笑う。
「――一年の計略は元旦にありですな」
信長「今日は一月十日だ」
お市様「細かいのー」
信長「細かくせねば国は治まらぬ!」
お市様「兄上、まじめじゃの。だから好き」
信長「好きと言うな!胃が照れる!」
評定の間の緊張が、笑いに変わる。
恐怖と結果と銭と、そして家族の距離。
今日も織田家は、狂犬に振り回されながら――少しだけ強くなった。
◉桃の日記/狂犬記
天文二十二年 一月十日 夜 清州の帰路にて
今日、私はまた一つ学んだ。
姫様の戦は、城を落とすための戦では終わらない。
城を落とした“あと”に、町を割り、港を生かし、治安を作り、銭を回す。
そのために、姫様は拳を振るい、笑顔を振るい、そして――丸投げを振るう。
鳴海の焼け跡報告で、姫様は怒鳴らなかった。
代わりに「碁盤の目」と言った。
災いを“終わったこと”にせず、“次の仕組み”に変える。
岡部殿の胃はきっと悲鳴を上げたが、同心たちの背筋は伸びた。
そして、賞与三ヶ月。
怖いだけでは人は動かない。
恐怖の先に、報酬と誇りがあるから、人は守る側になれる。
道中、熱田で診療をした姫様は、戦の途中であっても妊婦と子供を先に診た。
笑いを起こし、不安を薄め、民の心を整えていた。
それは剣より鋭い“統治”だと思う。
清州での兄上様は、厳しかった。
だが「無茶はするな」と言う声は、当主としての言葉であり、兄としての言葉だった。
姫様もそれを分かっている。分かった上で、結果と銭で背中を支えに行く。
――家族は甘い。だが、国は甘くない。
その間に立つのが、当主なのだと感じた。
一年の計略は元旦にあり。
姫様は十日遅れて言った。雑。
けれど、姫様の雑さの中には、全部が繋がっている。
私は祐筆として、今日のことを記す。
狂犬は吠える。
吠えたあと、町を造る。
それが、私の主君だ。
――狂犬記/作者:桃




