第60話 狂犬お市様の正月は野戦にしよう!!!刈谷城占領――水野の旗で城門を開けろ、開いたら終わりだ――
西暦一五五三年(天文二十二年)一月六日 早朝
三河・刈谷城(城門前)/冬の海風、骨まで刺さる頃
■狂犬記/作者:桃
冬の朝は、空気が針である。
息を吸うだけで肺が「痛っ」って言う。尾張の冬は湿って冷たい。伊勢湾の風が、武士の面の隙間から入り込んで、気合いを根こそぎ持っていく。
――だが。
うちのお市様は、気合いを冷気で増幅するタイプの狂犬である。
刈谷城が見えた。
城門の上に揺れる旗。見張りの影。凍った堀の水面が薄く光る。
先頭に立つのは――前田利家。
派手なカブキモノが、今日だけは「派手」を封印し、目だけで吠えている。
その後ろ。
お市様は豊臣号にまたがり、水野の旗を風に泳がせていた。
旗の布が鳴る音が、やたらでかい。静かな冬の城門前では、太鼓みたいに響く。
「……利家」
お市様が、低い声で呼んだ。
「はっ」
利家は、真面目すぎて逆に怖い顔をしている。まつが見たら泣く。たぶん「それ誰」って言う。
お市様は、笑顔だった。
この人の笑顔は、基本的に“ろくなこと”の前触れである。
「よいか。わらわの首を取ったと伝えよ」
「……は?」
「首桶をかかげよ。門が開いた瞬間、制圧。殺すな。折れ。刺せ。縛れ。簀巻け」
「……正月から、指示が重い……!」
利家が小声でぼやいた瞬間、さくらが横から突っ込む。
「利家さん。いま“重い”って言いました?」
「言ってない、言ってない! 俺の心は軽い!」
「軽い男は嫌われますよ?」
「まつに嫌われるのは困る!」
「なら、黙って走れ」
「はい……!」
服部せつながニヤつく。
「フリーター、やっと武士っぽい顔になってきたやん」
「やめろ! それ俺の黒歴史みたいに言うな!」
「黒歴史は消えないよ。狂犬堂の帳簿みたいに」
「帳簿の例えがリアルや!」
藤林あやめは、冷静に周囲を見る。
「城門の見張り、二人。寒くて動きが鈍い。……正月明けの油断ですね」
「油断は、首になる」
お市様が言い切る。
そして、さらっと恐ろしいことを付け足した。
「首は取らぬがな。――わらわが拾ってやる」
「拾うな拾うな!」と利家が心の中で叫んでいる顔をしていた。
■利家目線:城門は喉元、声は震える
利家は、旗を握り直した。
水野の旗。――さっきまで緒川城で掲げていたもの。
(この旗で、刈谷が開く。開かなかったら……)
(いや、考えるな。まつが団子で説得した分、俺は働くしかない)
利家は城門へ近づき、声を張った。
「刈谷城の者ども! 水野信元さま、帰還!」
声が冬の空に吸われる。
門の上で影が動いた。
「……信元さま?」
「敵の狂犬お市、討ち取った! 首桶を持ち帰った! 急ぎ門を開けよ!」
利家は、ここで息を切らすフリをした。芝居は大事。
(芝居が下手なら、まつに笑われる……いや、今はそれどころじゃない)
城門の上の見張りが身を乗り出す。
「首桶だと? どこだ!」
利家の背後で、誰かが「来た」と呟いた。
――お市様だ。
豊臣号の横に吊るされた包み。
布で隠された“首桶っぽいもの”。
中身? もちろん、首じゃない。
入っているのは、別の意味で怖い“お土産”だ。
「見えるか!」利家は叫んだ。
「水野さまの武功、刈谷で迎えよ!」
城門が――軋んだ。
重い木が動く音。
(開く……!)
■狂犬お市様目線:開いたら、終わり
門が開いた瞬間、世界が変わる。
戦は、門の開閉で九割決まる。
昔からそうだ。――尾張の古老は言う。「城は門、門は心」だと。
「――行け」
お市様の声は、凍るほど静かだった。
次の瞬間。
「愛部! 前へ!」
「「おおおおおお!!」」
お市様直轄武士団・愛部.まなべ二百が、一斉に雪を踏む。
足音が、地鳴りになる。
槍先が揃う。盾が前に出る。
隊列が美しい。――美しいものは強い。お市様はそう思っている。たぶん本人が世界一美しいので、説得力があるのが腹立つ。
「犬かき衆! 左右展開! 逃げ道を塞げ!」
せつなが叫ぶ。
犬かき衆が、城門脇から雪を蹴立て、裏へ回る。
「犬かき」が陸で走っているの、字面がもう面白い。
利家は、城門の隙間をすり抜けながら叫ぶ。
「門番! 武器を捨てろ! 死にたくなけりゃ地面に伏せろ!」
――口調がもう武士である。
(フリーター卒業おめでとう)と桃は思った。思ってないけど。
城内は混乱した。
「水野さまが!?」「狂犬が!?」「首桶って何!?」
情報が渋滞する。
渋滞は負けだ。
お市様は、城門をくぐらず、外から指を一本立てた。
「よいか。殺すな」
その指が、冬の朝日を反射して光る。
「折れ。縛れ。生かせ。――生きて働け。働けば腹は満ちる」
恐ろしい慈悲である。
■さくら目線:制圧は“捕り物”
さくらは、十手を構えて走った。
「逃げるなー! 逃げたら足を刺すぞー!」
言い方が可愛いのに内容が物騒。
城内で、武者が槍を構えて飛び出してきた。
さくらは一歩、二歩、三歩――間合いを測る。
「ごめんね、これ、仕事」
パチン。
十手で槍を絡め、ぐいっと引く。
体勢が崩れたところへ、利家が――拳で“ゴン”。
「……殺してない! 失神だ! セーフ!」
利家が必死に言い訳する。
「誰に?」
「お市様に!」
「それはわかる」
あやめが淡々と頷いた。
遠くから、お市様の声が響いた。
「利家ー! 拳は加減せよー! 骨は折ってよいが、首は折るなー!」
(骨は折っていいんだ……)
刈谷城の兵が、白目になりながら武器を捨て始めた。
■刈谷城兵目線:正月が終わった
正月の酒が残っていた。
朝は冷えた。
門は、味方の旗で開けた。
開けた瞬間、城内に雪崩れ込むのは――味方ではなかった。
「水野さまじゃない……!」
「狂犬だ……!」
「うちの城、正月から終わった!」
叫ぶ暇もなく、腕を極められ、縄が回り、十手が光り、盾が迫る。
刀を抜いた者は、足を刺されて転がった。
――だが、死なない。
死なないのが、逆に怖い。
「殺されない……?」
「殺されないなら……生き残る……?」
「生き残ったら……働かされる……?」
「団子屋……?」
「診療所……?」
「狂犬堂……?」
未来が、急に現実味を帯びてきた。
■場面転換:遅れて来る男、藤吉郎
刈谷城の制圧が半分進んだ頃。
城外から、土煙と共に駆けてくる集団があった。
「――お市様ぁぁぁ!!」
声がデカい。頭がピカピカ。
木下藤吉郎である。
「遅いぞ!」
お市様が言うと、藤吉郎は膝から崩れそうな勢いで頭を下げた。
「申し訳ございませぬ! 常滑城、調略完了! 武装解除! 守備兵八十配置! 残りを連れて刈谷へ直行しました!」
「よい。……で?」
「……で、って」
「“で”じゃ。成果は」
藤吉郎は息を整え、顔を上げる。
「常滑衆、逃げ腰でした。……ですが、条件を出しました」
「条件?」
「――“家族を守る”。それだけで、ほぼ落ちました」
お市様の目が細くなる。
狂犬が“優しい目”をするときは、だいたい計算がある。
「藤吉郎。おぬし、分かってきたの」
「はい。……お市様は、城を落とすんじゃない」
藤吉郎は、一度言葉を切って、続けた。
「――人を拾って、城ごと生かして使う。そういう戦です」
「ほう?」
お市様が口角を上げる。
「言えるではないか。褒美をやろう」
「な、何を……?」
「あとで考える」
藤吉郎は青ざめた。
「考えないでください! 怖いです!」
利家が横から囁く。
「木下……それが普通の反応や」
「前田殿、あなたも苦労してますね……」
「まつがおるからな……」
「それも苦労ですね……」
「やめろ! それは俺の幸せや!」
戦場で何を言っているのか。
■終盤:刈谷、落ちる
城内の抵抗は、もう形になっていなかった。
武装解除。縄。簀巻き。
兵は生かされ、集められる。
お市様が、雪の上に立ち、宣言する。
「刈谷城、制圧。――死者、ゼロ」
兵たちがざわついた。
死者ゼロの城攻め。
戦国の常識では、ありえない。
だが、ここは狂犬の領分だ。
「これより、武装解除ののち、希望者は面接じゃ」
「面接……?」
「働ける者は働け。家族は守る。子は寺子屋へ行け。病は診療所へ来い。むさい男は有料じゃ」
「最後、要らん情報!!」
桃が思わず突っ込むと、せつなが笑った。
「桃さん、ツッコミが板についてきたな」
「板につきたくない!」
お市様は、すっと藤吉郎を見る。
「藤吉郎。簀巻き水野を連れ、兄上へ“正月祝い”じゃ」
「城四つ献上、ですね」
「うむ。……兄上の胃が、また痛くなるな」
「優しい言い方で残酷!」
「利家」
お市様は利家に命じる。
「さくらとともに刈谷を守備。城下の治安を崩すな」
利家は背筋を伸ばした。
「はっ!」
――武士の声だ。
まつが見たら、たぶん泣く。今度は嬉しくて。
「あやめ、せつな」
「はい」
「緒川を守備。連絡を待て。城下の不安を抑えよ。――笑顔はゼロ文じゃ」
「了解。笑顔、無料」
せつながさらっと返す。
藤吉郎が最後に聞いた。
「……お市様。兵は置いていく、と」
「うむ。気を抜くな。正月だからと、油断するな」
お市様は、豊臣号のたてがみを撫で、笑った。
「――正月はな。戦が一番、よく進む」
全員の背中に、寒気が走った。
冬の風ではない。狂犬の笑顔のせいである。
◉桃の日記/狂犬記
天文二十二年 一月六日 夜 鳴海にて(刈谷より戻る前、火鉢の前で)
筆が震える。寒いからではない。今日の出来事が、頭の中でまだ鳴っている。
刈谷城は、落ちた。――死者はゼロ。嘘みたいだ。戦国で、城攻めで、死者ゼロ。
でも嘘じゃない。見た。確かに見た。
お市様は“狂犬”だ。毎日そう思う。叫ぶし、走るし、殴るし、歌うし、世界一美しいとか言う。
なのに、今日の城攻めは、どこまでも冷静で、どこまでも優しかった。
殺すな、と言った。
生かせ、と言った。
働け、と言った。
家族は守る、と言った。
……怖い。優しさが、怖い。
優しさで、人を縛るからだ。
人は、殺されるより“生かされる”方が、心が折れる時がある。
それでも――お市様のやり方なら、城下は守られる。子供は泣かない。妊婦は倒れない。老人は捨てられない。
それは、戦の勝ち方として、たぶん一番強い。
藤吉郎殿が、途中から駆けて来た。常滑城を調略して、守りを置いて、息を切らして。
お市様は、褒めた。
“分かってきたの”と。
藤吉郎殿は、嬉しそうで、同時に怖そうだった。
私はそれを見て、少し安心した。
あの方(藤吉郎殿)が“怖い”と感じる限り、お市様の狂犬ぶりは、まだ誰かの手綱で止められる。
利家殿も、変わってきた。
まつ殿の団子で、ここまで変わる男がいるのかと驚いた。
戦場で叫ぶ声が、武士の声になっていた。
まつ殿が見たら、きっと笑う。泣く。怒る。全部やる。忙しいだろう。
兄上(信長様)に城四つ献上――とお市様は言った。
信長様の胃が、また痛むだろう。
でも、あの方は本当は優しい。
立場が厳しいだけだ。
お市様も、それを知っていて、toggle胃を痛めにいく。
兄妹のやりとりは、いつも私の胃にも来る。
最後に。
お市様が言った。
「正月は、戦が一番よく進む」
……狂犬である。
でも私は、今日の狂犬を、少しだけ誇らしいと思ってしまった。
悔しい。私は祐筆なのに、感情が先に走る。
筆を置いて、火鉢に手をかざす。
明日から、また忙しくなる。
狂犬の背中を、書き残さねばならぬ。
それが、私の仕事だ。
――狂犬記/作者:桃




