第59話 狂犬お市様の正月は野戦にしよう! ――水野旗で「ただいま」/緒川城、五分で終わる――
西暦1553年(天文二十二年)正月五日 冬・夕刻
尾張・鳴海野~三河・緒川城
■狂犬家臣団目線:勝ったのに、胃が痛い。だって姫様が“次”を言う
夕刻。
撤退する水野勢の背中を、冷たい風が撫でていく。
常滑衆二百――壊滅。
水野信元の兵五百――三百が信元を守って撤退。だがその三百は、縦に伸びた。
鍛え方の差は残酷だ。足が遅い者から、息が上がる者から、順に転ぶ。
「……止まれ!」
「うわっ、足を……!」
「助け――」
鳴海勢は殺さない。
だが、止める。折る。縛る。泣かせる。生かす。
「姫様、足を狙えって……こういう意味か」
利家が顔を引きつらせた。
「意味は“戦場を病院にしない”だ」
藤吉郎が淡々と言う。
「死体が増えると、後が腐る。恨みも腐る」
「……おまえ、時々こわいな」
「姫様の隣に五年いたら、常識の方が壊れる」
その時――
逃げる信元を、豊臣号が追いついた。
「殿ぉぉぉ!」
「守れぇぇ!」
叫びが飛んだ次の瞬間。
ゴツン!
お市様の拳骨が、信元を落馬させた。
信元、白目。失神。簀巻き。
「……今、殿って拳で落ちたよな?」
利家が自分の目を疑う。
「落ちた」
「……刀いらんやん」
「利家」
さくらが笑う。
「刀は“飾り”。姫様は“拳”が本体」
「最悪の情報を新年に聞いた!」
お市様は簀巻きの信元を見下ろし、にこり。
「生きておるな。よし。役に立て」
「殿を“道具”扱いすな!」
「道具ではない。鍵じゃ」
あやめが冷たく言う。
「城門を開ける鍵」
「そう、それ!」
お市様が嬉しそうに頷いた。
「刈谷へ行く前に、緒川を“片付ける”」
兵がざっと集まる。
息は切れている。だが顔は切れてない。狂犬訓練の成果である。
お市様が命じた。
「利家、さくら、せつな、あやめ。ついてこい」
「はっ!」
「藤吉郎は残りをまとめよ。捕縛の整理、怪我人の手当、武具回収。殺すなよ?」
「承知」
「あと――」
お市様が利家を指差す。
「よけいなことは、しゃべるな」
「……俺、しゃべる顔してる?」
「しておる」
「顔で判断すな!」
そして、地べたに落ちていた旗――水野旗を拾い上げる。
「狂犬旗はしまえ。水野旗を掲げる」
「姫様、偽装っすか」
せつなが目を細める。
「偽装ではない。帰城じゃ」
「帰城って言うな!」
利家が叫んだ。
「俺、水野の家臣ちゃう!」
「今から、五分だけ水野じゃ」
「五分の転職やめろ!」
豊臣号の背に、簀巻き信元が荷物みたいに積まれた。
縄がきしむ。白目が揺れる。
正月に見る光景ではない。
■緒川城前:城兵目線「殿が巻かれて帰ってきた」って何の悪夢だ
緒川城。冬の夕闇。
城門の火が、寒さに負けて弱々しい。
見張りが声を上げた。
「水野の旗!?」
「殿の帰還か!」
「いや、殿……殿が……!」
門前に現れたのは、水野旗。
先頭は、派手なカブキモノ。
そして背後に――豊臣号。
その背には、簀巻き。
「……殿?」
「殿……白目?」
「殿……荷物?」
城兵の頭が混乱して、槍の穂先だけが震える。
利家が咳払いした。
目が泳ぐ。絶対に余計なことを言う前兆だ。
(やめろ利家、しゃべるな利家、しゃべるな利家……!)
お市様が低く言った。
「利家。よけいなことは、しゃべるな」
「……はい!」
利家、いきなり真面目な声で叫ぶ。
「野戦で痛手! 殿、負傷! 急ぎ入れる! 門を開けろ!」
(よし!まとも!)
城兵が顔を見合わせた。
「殿が……負傷……?」
「だが、簀巻き……?」
「医者は!?」
そこに、お市様が一歩進み出て、白衣のように見える上着をふわりと整えた。
「医者なら、ここにおる」
城兵、凍る。
「……だ、誰だ」
「世界一美しい医者じゃ」
「質問の答えじゃない!」
せつなが笑顔で言う。
「殿を助けたくないの? 門、開けよ?」
脅しじゃない。優しい口調。だから怖い。
あやめが淡々と添える。
「門を閉じたままだと、殿の手当が遅れる。殿が死ぬと、あなたたちが困る」
「それは……!」
城兵の理性が折れる。
折れる折れ方が、戦ではなく生活の折れ方。
「……開けろ!」
「開門!」
門が軋んで開く。
利家が先頭で、城門をくぐる。
水野旗が揺れる。
豊臣号が続く。
簀巻きが揺れる。
そして最後尾から、静かな声。
「門をくぐれば、全速前進」
お市様の目が笑っていない。
「城を制圧。緒川兵は倉に閉じ込める。外鍵。――さっさと刈谷へ行くぞ」
「……はっ!」
利家が、反射で返事してしまい、口を押さえた。
(俺、もう狂犬に染まってる……)
■城内:制圧は“戦”じゃない。“作業”だ
城内は年始の気の緩みが残っていた。
武具庫の見回りも甘い。詰所の交代も遅い。
――だから、速い者が勝つ。
せつなが同心のように動く。
曲がり角で十手を見せ、声を低く落とす。
「動くな。命は取らない。けど、抵抗したら骨は取る」
「ひっ……!」
さくらが笑顔で煎餅袋を見せる。
「はい、深呼吸。泣く前にこれ食べよ。糖分大事」
「敵に煎餅!?」
「狂犬堂だから」
あやめは一切笑わず、要点だけ指示する。
「武具を置け。座れ。目を閉じろ。数えるな」
「数えるな……?」
「恐怖を数えると増える」
利家は派手なまま走り回り、声だけデカい。
「おい! そこ! 槍置けぇぇぇ!」
城兵が反射で従う。
「なんで従ってしまうんだ……!」
「おまえの声がうるさいからだ!」
「ひどい理由!」
五分。
ほんとうに五分。
緒川城の兵は、倉へ集められた。
縄は最低限。殴らない。血も出さない。
だが倉の外から――鍵がかかる音がした。
カチャン。
「……え」
「え、今の」
「外鍵……?」
倉の中で、城兵がざわめく。
その扉の前に、お市様が立った。
「騒ぐな。すぐ終わる」
「終わるって何が!?」
「刈谷じゃ」
利家が小声で言う。
「姫様、これ……後で恨まれません?」
お市様は首を傾げた。
「恨み? 命を取っておらぬ。家族も取っておらぬ。城も燃やしておらぬ」
「でも倉に閉じ込めた!」
「寒くないよう、藁も入れた」
「優しさの方向が狂犬!」
せつなが頷く。
「恨みは減る。命を奪ってないから。あとで雇える」
「雇うな!」
お市様は、豊臣号の手綱を引いた。
簀巻き信元が、背で揺れる。
「……さっさと刈谷に行くぞ」
「はいっ!」
利家、また反射で返事。
「くっ……!」
冬の夕闇。
緒川城は、門を閉じたまま、何事もなかったような顔でそこに立っていた。
違うのはひとつだけ。
城の“中身”が、倉に入っている。
◉狂犬記/作者・桃 日記(天文二十二年 正月五日・夕)
本日夕刻、野戦は勝利に終わった。
常滑衆二百は壊滅、水野信元勢五百は撤退したが、鍛え方の差で縦に伸び、先頭から倒れていった。
姫様の方針は徹底していて、殺さず、足を止め、捕らえ、生かす。
その最たるものが、水野信元である。
姫様は豊臣号で追いつき、拳骨で落馬させ、失神させた。
私は筆を握りながら「殿が拳骨で落ちる」という現実を処理できず、心の中で三回ほど南無妙法蓮華経を唱えた。
そして姫様は、拾った水野旗を掲げ、狂犬旗をしまい、利家殿を先頭に緒川城門をくぐった。
この時の姫様の目は、笑っていなかった。
“戦”ではなく“作業”の目だった。
姫様は利家殿に「よけいなことはしゃべるな」と命じた。
利家殿は珍しくまともに「殿負傷、急ぎ入れる」と叫び、城兵は門を開けた。
……が、姫様の本命は門をくぐった後だった。
門内での制圧は、五分で終わった。
血は出ず、死者も出ず、ただ――兵が倉に集められ、外鍵がかかった。
鍵の音が、なぜか一番怖かった。
姫様は「すぐ終わる。刈谷じゃ」と言った。
私は、正月とは何かを考えた。
鳴海では、正月とは「祝う」ではなく「刈谷へ行く準備」らしい。
(追記)
利家殿が二回も反射で「はいっ」と返事をしていた。




