第58話 狂犬お市様の正月は野戦にしよう! ――鳴海“偽内乱”火計り/水野信元、釣れて、折れる――
西暦1553年(天文二十二年)正月五日 冬・昼
尾張・鳴海城下/鳴海周辺野
■桃視点:正月五日、昼。斥候が来た。姫様は笑った。終わり。
正月五日。
世間は「そろそろ働くか」とか「餅に飽きた」とか、そういう空気だと思う。
鳴海は違う。
鳴海は――餅ではなく、火だ。
「斥候っ! 南から! 緒川・刈谷の水野方!」
城門の見張りが叫んだ。
私は思った。
来た。釣れた。
せつなと岡部の“釣り針”が、刺さった。
そして姫様が、床几から立ち上がった。
その動きが、やけに優雅だったのが怖い。
美しい人が、戦を始める瞬間は、なぜこんなに静かなんだろう。
「兵数」
「水野信元さま、兵五百。常滑衆二百、計七百!」
「ふむ。ちょうどよい」
「どこがちょうどですか!」と私はツッコミたくて喉まで出たが、飲んだ。命が大事。
姫様は振り向き、即座に命じた。
「せつな、あやめ」
「はいっ!」
「城下に火をつけよ。火災を起こせ」
「えっ、えええええ!?」と、私は叫んだ。
隣の岡部殿が、顔色を失った。胃が戻ってきた。
「姫様! それはっ……城下がっ……!」
岡部殿の声は震える。
姫様は、岡部殿の震えごと握りつぶすように言った。
「岡部」
「は、はい」
「鳴海同心、住民を避難させよ」
「……承知」
「“火付盗賊改”の腕の見せ所じゃ」
「火付は……私の仕事では……!」
「今は“火付”も仕事じゃ」
「ひぃ……!」
せつなが、やけに明るく手を叩いた。
「よっしゃ! “計画火災”ね!」
「計画火災って言葉ある!?」
「あるよ桃。今日できた」
「できるなそんな言葉!」
あやめが真顔で補足した。
「燃やすのは“空き家”と“倉の外壁だけ”。風向き見て、延焼止めは同心がやる。住民は先に避難。……姫様、いつも通りですね」
「いつも通りに言うな! いつもが狂犬だよ!」
姫様は次に、藤吉郎様と利家を見た。
その目が、戦場の経営者の目になっている。
「藤吉郎、利家」
「はっ」
「わらわが用意してある、今川の旗三百を持て」
「はい」
「兵を率い、偽兵として騒げ。鳴海で争乱が起こっているようにせよ」
利家が目を剥いた。
「姫様、旗三百って……どこから……」
「倉」
「倉万能かよ!」
藤吉郎様が、低い声で利家に言った。
「利家。驚くな。姫様の倉は“国家”だ」
「国家って言うな!」
姫様は続ける。
「藤吉郎、利家」
「距離を測れ。頃合いを見て、水野の部隊へ“逃げ込むふり”をして強襲じゃ」
「了解」
「今川の旗から、狂犬の旗に変えよ」
「旗替え、忙しすぎません?」と利家。
「忙しい方が敵は混乱する」
「合理が怖い!」
姫様は、すっと指を立てた。
「わらわは、百四十の兵と城下に埋伏。横槍を入れる」
「……姫様、埋伏って、姫様が隠れるんですか」
私が言うと、姫様は首を傾げる。
「桃。わらわが隠れるのではない」
「……?」
「世界が、わらわを見失うのじゃ」
「言い方ァ!」
そして、最後の釘。
「致命傷は与えるな。殺すな。生かせ」
「骨を折り、足を刺し、腕を折れ」
命令が優しいのか怖いのか、分からない。
ただ一つ言えるのは――狂犬式は、殺さずに地獄を見せる。
「水野信元が逃げたら、三百四十名は全速前進、緒川・刈谷を叩く」
「藤吉郎は百を率いて常滑を調略。調略の後、人質を受け入れ、そのまま刈谷へ参戦せよ」
藤吉郎様が頷く。
利家が唾を飲む。
岡部殿が胃を押さえる。
せつなはニヤニヤしている。
あやめはもう地図を見ている。
――この城、正月を何だと思ってるんだ。
■岡部目線:避難誘導が“治安”の本質だと初めて知った
「同心! 避難だ! 西の寺へ! 子どもと妊婦を先に!」
岡部は叫び、走った。
深紅の同心服が冬空に刺さる。派手でよい。見つけやすい。
民が、同心にすがる目をしている。
(今川の頃、民は武士を避けた)
(だが今、民は同心を頼る)
同心の若い者が言った。
「奉行! 城下に火って……姫様、何考えて……」
岡部は一瞬、言葉に詰まった。
だが、姫様の顔が浮かんだ。診療所で子に煎餅を渡す姿が。
「……考えておられる」
「何を……」
「民が死なぬ戦をだ」
燃えるのは家かもしれない。
だが、焼け死ぬ民を出さぬために、先に動いている。
そのために、避難、誘導、延焼止め、消火の人足まで準備している。
(胃が痛い。だが……これは“誇り”の痛みだ)
「火の手は、ここまでで止めろ! 水桶を回せ! 風向き見ろ!」
岡部は叫ぶ。
同心たちが動く。
民も動く。
鳴海は、ただ燃えるのではない。燃やして、守っている。
■水野方斥候目線:鳴海、内乱? いや、地獄の祭り?
斥候は丘の陰から見た。
鳴海城下の一角が燃えている。
武装した兵が走り回り、怒号が飛ぶ。
「内乱だ!」
「鳴海が割れたぞ!」
「岡部が反旗か!?」
――噂は本当だった。
鳴海は狂犬に乗っ取られ、今川に噛みつき、ついに内部で崩れた。
今が好機。押さえに行けば、鳴海は取れる。
だが、火の向こうに見える旗が異様だった。
今川の旗が、やけに多い。
そして、動きが上手すぎる。
斥候は背筋が冷えた。
内乱の動きじゃない。
これは罠だ。
気づいた時には、もう遅い。
■藤吉郎視点:旗は布。だが、布で人は死ぬほど迷う。
「利家、旗持ち交代、二列目!」
「おう!」
「声は荒く! 内輪揉めの口喧嘩を演じろ!」
「口喧嘩!? 戦で!?」
「戦は演技だ!」
藤吉郎は距離を測っていた。
敵七百。こちらの“見せ旗”三百と、隠れ兵百四十。
城下の火。避難は完了。延焼止めは岡部が回している。
――全部、姫様の盤面の上だ。
利家が叫ぶ。
「おい! てめぇら! 鳴海は俺らが取るんだよ!」
「違ぇ! 岡部派が正しい!」
「黙れ! 今川派だ!」
阿呆みたいな怒号。
だが敵は、これを“真実”として見たがる。
欲しい情報に、飛びつく。
斥候の動きが変わった。
背後に、本隊が出てくる。
「来たな」
藤吉郎が呟く。
利家が震え声で聞いた。
「藤吉郎……これ、ほんとに逃げ込むのか?」
「逃げ込む“ふり”だ」
「ふりが苦手なんだ俺は!」
「利家」
「ん?」
「生き残りたいなら、演じろ」
「……くそっ!」
藤吉郎は合図を送った。
犬かき衆が路地の奥へ滑り、愛部.まなべが影に沈む。
そして、頃合い。
「いま!」
藤吉郎と利家は、今川旗のまま、水野隊へ“逃げ込む”。
「た、助けてくれ! 鳴海が割れた!」
「岡部が裏切った!」
「俺たちは今川だ! 受け入れろ!」
水野隊がざわつく。
常滑衆が前に出る。
――その瞬間。
「旗替え!!」
藤吉郎が吠えた。
今川の旗が、ばさりと落ちる。
代わりに翻るのは、深紅の狂犬旗。
そして横から、城下の影から――
「横槍じゃ。ひざまずけ」
聞いたことのある声。
冷えて、笑って、残酷に美しい声。
お市様が、百四十を率いて斜めから突っ込んだ。
■お市様視点:勝つ戦は、噂と火と、笑顔でできておる
「致命傷は与えるな」
「殺すな」
「生かせ」
わらわは言った。
それだけで兵は動く。
愛部.まなべが、無言で殴り、折り、倒し、縛る。
犬かき衆が、槍で足を狙い、腕を落とし、動きを止める。
水野の兵は強い。
だが――
噂で揺れて、火で怯えて、旗で混乱した心は、刃より先に折れる。
「撤け! 撤けぇ!」
水野信元が叫ぶ。
逃げた。
よい。逃げろ。
逃げる背に、追撃が刺さる。
「三百四十! 全速前進!」
「緒川! 刈谷を叩け!」
わらわは笑った。
正月は、勝って祝う。
――それが鳴海じゃ。
◉桃視点:地図の上で人が動く。私は筆で追う。胃が追いつかない。
戦場は、地獄のようでいて、奇妙に秩序があった。
姫様の命令は、恐ろしく雑に見えて、実際は“線”になっている。
火。旗。避難。罠。横槍。追撃。調略。
全部、一本の縄で繋がっている。
利家が、泥だらけで叫んでいた。
「俺、フリーターだったんだぞぉぉ!」
「黙って走れ!」と藤吉郎様。
「走るのは得意だぁぁ!」
「なら走れぇぇ!」
岡部殿は避難誘導のまま、同心に指示を飛ばし続けている。
「火は止めろ! 住民を戻すな! 水桶! 風を見ろ!」
胃が痛いのに、声が強い。
奉行とは、こういうものなのかもしれない。
そして姫様は――
血を浴びずに、勝っていく。
殺さずに、折っていく。
怖い。
でも、民が死なない戦は、確かにここにある。
◉狂犬記/作者・桃 日記(天文二十二年 正月五日)
本日、緒川刈谷の水野信元と常滑衆が、計七百で現れた。
姫様は即座に「城下に火をつけよ」と仰せになった。私は一瞬、心臓が止まった。
だが、同心による避難が先であり、延焼を止める算段もあり、燃やす場所も選んでいた。
姫様の戦は、乱暴に見えて、乱暴ではない。
むしろ“人が死なぬための乱暴”だ。矛盾のようで、現実に最も近い。
藤吉郎様と利家殿は、今川旗で偽内乱を演じ、水野隊に逃げ込むふりをし、旗替えで強襲した。
旗は布だが、布で人の心は迷い、迷った心は足を止め、止まった足は折られる。
姫様は「殺すな」と言い続けた。
その命令があるから、兵の目が変わる。
人を守るために戦う目だ。
水野信元は逃げた。
姫様は追撃を命じた。緒川と刈谷が、次の獲物になる。
藤吉郎様は常滑を調略に向かう。
――正月とは何か。
鳴海では、勝って祝うために、今日も火が燃える。
(追記)
利家殿が「俺フリーターだった」と叫びながら走っていた。
鳴海は人を変える。良いのか悪いのかは、まだ分からない。




