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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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57話 狂犬お市様の正月は野戦にしよう! ――大高城、水路潜入作戦・翌朝/釣り針は三つ――

西暦1553年(天文二十二年)正月二日 冬・早朝

尾張・鳴海城/大高城跡

■桃視点:正月の朝に、簀巻きが二百一体って何

 夜明け前の鳴海は、冬の霧が低く貼り付いていた。

 川面は冷えて、吐く息は白い。普通の城なら――正月は祝膳、雑煮、怠惰、寝正月。

 鳴海城は違う。

「……簀巻き……二百一体……」

 私は数えた。数えたくなかったが、数えた。

 舟の上に、簀巻きが整列している。

 まるで、干物市だ。正月の干物市。しかも動く。

「桃、数えてる場合じゃないぞ」

 藤吉郎様が、薄暗い舟端で声をひそめた。ひそめてるのに圧がある。

「数えないと、あとで姫様が“二百一体じゃ!”って言った時に、“二百でした”って言えません」

「おまえ、命より帳簿が大事か」

「違います。姫様の“数字”が命なんです」

 後ろで、利家が白目をむいていた。まだ慣れてない。いいぞ、そのまま慣れるな。

「……なぁ藤吉郎」

「なんだ利家」

「俺、昨日まで“フリーター”だったんだぞ」

「うん」

「正月二日、簀巻き二百一体を舟に積んでる」

「うん」

「……これ、転職ミスってない?」

「狂犬堂は福利厚生が厚い」

「どこが!」

「煎餅が無料」

「そこかよ!」

 犬かき衆が、凍える手で櫓を操る。

 愛部.まなべ(二百名)は、武具のまま黙々と舟に簀巻きを積む。

 静かだ。静かすぎて、逆に怖い。

 ――そして。

 霧の向こう、最前列の舟に、あの人が立っていた。

 狂犬お市様。

 深紅の鎧。凶悪なガントレットは今日は外している。正月だからか。優しい。

 ……いや、違う。“殴らない日”があるだけで優しさ判定は保留だ。

「みなの者」

 姫様が、霧を割る声で言った。

「正月じゃ。めでたい。ゆえに――」

 全員が息をのむ。

「簀巻きは丁寧に扱え」

「そこ!?」と、利家が小声で叫んだ。

 姫様は利家を見て、にっこり笑う。

「利家、簀巻きはな、運搬が乱暴だと中身が酔う」

「酔う!?」

「酔って吐く」

「吐く!?」

「吐いたら掃除が増える」

「そこに最適化すな!」

 藤吉郎様が、真顔で頷いた。

「姫様の合理性は、常に現場に寄り添う」

「寄り添い方ァ!」

 舟は鳴海へ入っていった。城門が開き、静かに兵が帰還する。

 簀巻き二百一体も、凍えた霧と一緒に城へ吸い込まれていく。

 大高城は――旗だけ残し、空城。

 門は固く閉じ、出入り不能。

 誰が見ても「何かあった」と分かる。だが中身がない。

 そして、それを嗅ぎつけた獲物が、必ず動く。

 釣り針は三つ。

 常滑・緒川・刈谷。

■鳴海城・簡易軍議:正月の雑煮より重い指示

 鳴海城に戻ると、城内は正月の余韻が残っていた。

 でも、空気は完全に戦。

 岡部殿と同心たちが控えている。

 同心服は深紅に白の段だら――派手すぎて、遠目に祭りの隊列である。治安維持とは。

 姫様は評定の間に入るなり、座らない。

 立ったまま、指を鳴らした。

「岡部」

「はっ」

「血は吐くな」

「……努力いたします」

「吐いたら治療だ。吐かせないのが仕事だ」

「は、はい……」

 姫様は笑顔で言った。

 笑顔で圧をかける、狂犬の基本技である。

「せつな」

「はいっ!」

「常滑・緒川・刈谷へ、“鳴海が内乱で兵三百出陣”と流せ」

「了解っ! “岡部が泣いて狂犬に縋った”も付け足します?」

「盛りすぎじゃ。リアル寄りでいけ」

「えー、リアルの方が怖いんですけど!」

 岡部殿が小さく震えた。

「……私、泣いてはおりませぬ……」

「泣いたことにしておくと、敵が油断する」

「私の尊厳が……!」

「尊厳より治安じゃ」

「おっしゃる通りで……!」

 藤吉郎様が地図の前に出て、淡々とまとめた。

「敵は、鳴海が暴発したと聞けば、まず偵察を出す。次に“押さえに”兵を出す」

「押さえに来たら?」と利家。

「野戦で撃破し、追撃して城を取る」

「正月二日から、やることが重い!」

「利家、慣れろ。これが狂犬暦だ」

「嫌だよそんな暦!」

 姫様が利家を見た。

 笑顔で。

 世界一の美貌で。

 そして、世界一の圧で。

「利家」

「は、はいっ!」

「正月に働ける男はな、出世する」

「出世って、どこへ……」

「地獄の上へじゃ」

「上がってんのか下がってんのか分からん!」

 場が、くすっと笑った。

 緊張が少し溶ける。

 それを見て、姫様が満足げに頷いた。

「よい。笑顔はただじゃ。――では次」

 次があるのが怖い。

「簀巻き二百一体は、狂犬堂の長屋へ。山口親子は煎餅配り続行」

「はい」と藤吉郎様。

「大高の鵜殿長照と兵二百は?」

「面接予定じゃ」

「面接……戦国で面接……」と私が呟くと、姫様がこちらを見る。

「桃」

「はいっ!」

「記録を残せ。正月二日、わらわは美しいまま勝った、と」

「勝ってから書きます!」

「先に書け。勝つから」

「前提が強い!」

 姫様は、にっこり。

「負ける想定は、金も心も無駄じゃ」

 ――この人、たまに“経営者”の顔をする。

 狂犬堂が巨大になる理由が、そこにある。

■岡部目線:胃が回復すると、仕事が増える

 (……助かったと思ったのだ。血を吐いて倒れた時、私は終わったと思った)

 (だが、狂犬お市様は治した。そして私は採用された)

 (採用された、ということは……)

「岡部、同心の詰所、港、町、村、漁村――巡回表を作れ」

「はっ」

「一勤二休を守れ。守れぬと士気が折れる」

「はっ」

「だが捕物の時は別じゃ。全員出ろ」

「……はっ」

 (休めと言い、出ろと言う。矛盾ではない。現実だ)

 (そして――この方は、民の声を聞けと言う)

 (今川の頃、そんな命は一度もなかった)

 岡部は同心服を見下ろした。深紅に白の段だら。

 派手すぎる。だが――民はこの服を見れば、必ず気づく。

 **「鳴海は変わった」**と。

 (胃が痛いのは、恐怖だけではない。責任も痛むのだな……)

■せつな視点:流言飛語は、戦の前菜

 せつなは、同心たちを集めて、手早く指示を飛ばす。

「常滑に“鳴海が内乱”」

「緒川に“岡部が兵三百で暴発”」

「刈谷に“鳴海が狂犬に乗っ取られて、今川に牙を向いた”」

「どれが本当ですか?」と新人同心が聞く。

 せつなは、にかっと笑った。

「どれも“信じたら本当になる”」

「怖っ!」

「怖がれ。怖がった分、口が軽くなる。軽くなった口が、噂を遠くへ運ぶ」

 同心たちは震えながら頷いた。

 鳴海の治安維持は、今日も平和(?)だ。

■桃視点:待機って、胃に悪い

 その日の昼。

 城は一見、正月の落ち着きを取り戻したように見えた。

 けれど、全員が“待っている”。

 敵が釣れるのを。

「来るかな……」と利家。

「来る」と藤吉郎様。

「根拠は?」

「姫様が言った」

「それ根拠でいいの!?」

 愛部.まなべの兵は、黙々と武具を整える。

 犬かき衆は舟を点検している。

 岡部殿は巡回表を握りしめて胃を押さえている。

 そして姫様は――

 診療所に行って、子供に煎餅を配り、妊婦に団子を渡し、老人の脈を取り、

 帰り道に「笑顔はただじゃ!」と叫びながら城へ戻ってきた。

 忙しすぎる。正月とは。

「姫様、休まれませぬか」と私が言うと、姫様は首を傾げた。

「桃。休みとは何じゃ」

「……概念です」

「概念は腹を満たさん」

「正論が痛い!」

 姫様は、城壁の上に立ち、遠く東の方角を見た。

 常滑、緒川、刈谷――そこから動く“気配”を。

「来るぞ」

 ぽつりと、姫様が言った。

 瞬間、城内の空気が変わった。

 藤吉郎様が地図を押さえ、せつなが伝令を走らせ、岡部殿が同心を集める。

 利家が息を飲む。

「……正月って、こんな日だっけ」

「鳴海では、これが正月じゃ」と私は言った。

「鳴海、怖ぇよ……!」

 姫様が振り向く。

 その顔は笑っていた。

 狂犬の笑顔。

 でも、その奥は冷たい刃みたいに澄んでいる。

「よいか、皆の者」

「釣れた魚は、叩いて捕まえ、裁く。殺すな」

「民を守れ。弱き者を守れ」

「――そして」

 姫様は、拳を軽く握った。

「尾張の正月は、勝って祝うのじゃ」

◉狂犬記/作者・桃 日記(天文二十二年 正月二日)

 本日、夜襲の成果として簀巻き二百一体を舟に積み、鳴海へ帰還した。

 正月に簀巻きが並ぶ光景は、二度と見たくない。だが、これが狂犬家臣団の日常である。

 姫様は、戦の最中でも民に煎餅を配り、妊婦に団子を渡し、診療を欠かさない。

 その上で、敵の心を折り、城を空にし、噂で釣り、野戦へ誘う。

 恐ろしいほど合理的で、恐ろしいほど優しい。

 優しいが、優しさが“圧”でできている。

 藤吉郎様は、姫様の意図を読み、現場へ落とす知恵がある。

 利家殿は、まだ白目をむくが、白目のままでも走れる男だと分かった。

 岡部殿は胃が回復したら仕事が増えた。人生とは不条理である。

 姫様が言った。

「負ける想定は無駄じゃ。勝つから」

 私は祐筆として、記す。

 正月二日、鳴海は静かに刃を研いだ。

 次に吠えるのは――常滑か、緒川か、刈谷か。

(追記)

 姫様は今日も世界一美しい。

 それだけは、戦より確実である。

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