56話 狂犬お市様の正月は強襲 ――大高城 水路潜入作戦――
西暦一五五三年(天文二十二年)一月一日 夕刻〜深夜
尾張・大高城(今川方)/鳴海城(狂犬方)
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
■鵜殿長照:正月くらい、休ませてくれ(切実)
大高城代・鵜殿長照は、夕刻の城内で――
心の底から、ほっとしていた。
「……今日は来ぬ。さすがに正月じゃ。来ぬ、はずだ」
十四日間。
毎日毎日、鳴海の狂犬が、兵を連れて現れては、城の周りも城下町も一周して、わめき散らして帰っていった。
――来るのか?
――今か?
――今夜襲か?
兵二百。
交代で仮眠させても、目の下の隈は消えない。
見張り台の兵など、もう“槍”ではなく“まぶた”が落ちる。
「城代様、今宵はどうされます」
「……休む」
「休めますか」
「休ませろ……」
長照は、兵の顔を見た。
正月。
士気維持のため、酒を振る舞った。
それが、正しい判断だと信じたかった。
「よいか。今宵は“ゆるむ”のではない。“正月”だ」
「はっ!」
「……ただし」
長照は、窓の外を見た。
暗い冬の空。三日月。
嫌な胸騒ぎが、喉の奥にひっかかる。
「門の篝火は絶やすな。見張りは二倍――」
「城代様、それでは休めませぬ」
「……黙れ」
黙れ、と言ったのに。
長照の胃が、きゅっと縮んだ。
あの狂犬の笑顔が、なぜか脳裏に浮かぶ。
(……来ない。今日は来ない。正月だ)
そう自分に言い聞かせて――
長照は平服で、床に入った。
■鳴海城:正月の宴、終わった瞬間に“無音”になる
同じ夜。
鳴海城。
正月の宴で、さっきまで笑っていた“愛部.まなべ”と“犬かき衆”が、
息を潜めて兵隊長屋を出ていく。
音が、ない。
鎧の擦れも、足音も、咳払いも。
ここだけ、冬の空気より冷えている。
私は(桃)、鳥肌が立った。
「……姫様、ほんまに今日行くんやな」まつ殿が小声で言う。
「正月やから行く」お市様は、さらっと言った。
「意味わからん!」まつ殿が即ツッコミ。
「正月は皆が油断する。油断は敵じゃ。敵は噛む」
「理屈が狂犬!」
「ほめておる?」
「ほめてへん!!」
寧々殿が、こちらを睨む。
「桃、白衣と薬箱、持ったな?現地で“怪我人ゼロ”が理想や」
「はい……胃薬も入れました」
「自分の分やな」
「はい……」
お市様は、深紅の鎧。
凶悪なガントレットは今日は付けない――が、目がガントレットである。
「よいか。殺すな。骨を砕くな。致命傷もだめじゃ」
「……はい」藤吉郎様が頷く。
「槍は足。刀は刃引き。十手で制圧」
「……はい」利家が喉を鳴らした。
「利家」
「はっ」
「初陣じゃな。よいか、調子に乗るな。目立つな。だが働け」
「矛盾してません?」
「矛盾は力じゃ」
「狂犬だ……」
さくらが笑う。
「利家、震えてる?」
「震えてない」
「震えてる」
「震えてない!」
「声が震えてる」
「黙れ伊賀!!」
あやめが、冷静に言った。
「犬かき衆、出舟の順番、確認。潮、問題なし」
「よし」藤吉郎様。
せつなが、無邪気に言った。
「正月、海、夜、潜入。たのしー!」
「お前の“たのしい”は信用ならん!」利家。
「ひどい!」
「信用できるのは姫様の指示だけだ!」
「それも怖いわ!」
そして、お市様が一言。
「……出るぞ」
■早舟二十四艘:三日月の夜、川を下る
早舟二十四艘。
川を下る。
櫓とカイ。犬かき衆の腕が唸る。
水音すら、小さい。
冬の川は冷たい。
でも、兵の息は熱い。
正月の酒は抜けて、恐怖と興奮だけが残る。
船首で、お市様が立っている。
髪が風に揺れ、鎧の深紅が月に浮かぶ。
私は思った。
(……この人、ほんまに“戦”を祭りにする気や)
「藤吉郎」
「はっ」
「上陸したら、二列。右は犬かき衆、左は愛部」
「承知」
「利家」
「はっ」
「お主は藤吉郎の横で、覚えろ」
「了解……いや、承知!」
利家が言い直した。
真面目か。
海に出る。
潮の匂い。
砂浜が見える。
「――上陸」
■大高城・西の砂浜:警備、いない(正月)
何の障害もない。
あまりに、ない。
逆に怖い。
砂浜に舟を上げる。
兵が静かに降りる。
武器は抜かない。抜くのは最後だ。
利家が、囁いた。
「……城、寝てるぞ」
「正月じゃ。寝る」藤吉郎様が返す。
「いや、寝すぎやろ」
「姫様の圧を十四日受けた後の正月は、だいたい死ぬ」
「そんな分類ある?」
さくらが肩を揺らして笑う。
「利家、耳貸して。大高の兵、酒で“ふわふわ”だよ」
「やめろその言い方」
「ふわふわは捕まえやすい」
「やめろその言い方!!」
お市様が、指を立てた。
全員、止まる。
「――入る」
水路へ。
城の外堀へ。
静かに、静かに。
■水路潜入:犬かき衆、真の出番
犬かき衆が、縄を渡す。
人が滑るように動く。
鎧を脱がずに泳ぐ者もいる。
冬の水なのに、悲鳴ひとつ上がらない。
利家が、私に小声で聞いた。
「犬かき衆って、ほんまに犬かきするんか……」
「するよ」私は真顔で答えた。
「笑えん……」
藤吉郎様が、利家の肩を叩いた。
「学べ。鳴海では“冗談”が現実になる」
「怖い学び!」
城の裏手の通路へ。
見張り――いない。
お市様が、ささやく。
「……大高、ぬるいの」
その声が、妙に楽しげで。
逆に、兵の背筋が伸びた。
■城内:酒に溺れて、簀巻きが増える
最初の詰所。
寝ている。
槍が倒れている。
篝火だけが元気。
さくらが、合図。
せつなが、飛ぶ。
あやめが、押さえる。
藤吉郎様が、縄を投げる。
――簀巻き一号。
「殺すな、だ」藤吉郎様。
「わかってる」せつなが笑う。
「笑うな」利家。
次の部屋。
兵がいびき。
――簀巻き二号、三号、四号。
利家が、呟いた。
「これ、戦じゃない……捕物や……」
「うん」岡部がいないのに、岡部っぽい感想。
「火付盗賊改方の仕事や……」
「将来、岡部に自慢しとけ」藤吉郎様。
お市様は、先頭で迷わない。
城の構造が、頭に入っているかのように。
(……偵察、いつした?)
私は震えた。
あやめが、ちらっとこちらを見る。
目が「言うな」である。
伊賀、こわい。
■鵜殿長照:起きた時には、人生が簀巻き
城代の寝所。
平服の長照が、寝ている。
完全に寝ている。
胃の心配も寝ている。
今だけは。
お市様が、しゃがんで顔を覗き込む。
「……ふむ。これが鵜殿か」
そして、にっこり。
「正月、めでたいの」
利家が小声で言った。
「いや、めでたくないやろ城代」
「城代にとっては“悪夢初夢”だな」藤吉郎様。
「縁起が悪すぎる」
お市様は、長照の鼻先に、団子を置いた。
(なんで?)
「起きたら食え。腹が減ると判断を誤る」
「姫様、敵に優しいの意味が分かりません」私が言うと、
「優しいのではない。効率じゃ」
「ひえっ」
次の瞬間――
「簀巻きじゃ。丁寧にな」
藤吉郎様が合図。
さくら・あやめ・せつなが一斉に動く。
利家が縄を持つ手が震える。
「利家、手元!」
「わ、わかってる!」
「ほどける!」
「ほどけへん!」
「ほどける!」
「お前が言うな伊賀!!」
――簀巻き完成。
長照が、うっすら目を開けた。
「……な……」
「おはよう」お市様が微笑む。
「……誰……」
「世界一美しい狂犬じゃ」
「……夢……」
「夢ではない」
長照の目が、恐怖で焦点を失った。
「城代殿」藤吉郎様が、静かに言う。
「ここからは交渉じゃ。無駄に血を流す気はない」
「……た、助けは……」
「来ない」
「……今川が……」
「今川は正月で寝ている」
「……ッ」
お市様が、ひょいと三味線を背負い直した。
その動作が、異常に堂々としていて――
長照は泣きそうになった。
■無血制圧:門を開けろ(開けないなら開けさせる)
城内の主要箇所は、もう押さえた。
見張り台、兵糧庫、武具庫、井戸。
火を出す者はいない。
だが、門だけは閉じている。
お市様が、長照に言う。
「鵜殿」
「……」
「門を開けよ。城兵は殺さぬ。家族も守る」
「……信じられるか……」
「信じなくてよい」
「え?」
「信じなくてよいが、従え」
利家が、思わず呟いた。
「怖っ……」
「姫様は優しいぞ」藤吉郎様。
「どこが!」
「殺さない」
「それだけで優しい世界なのが怖い!」
お市様が、笑って言った。
「門を開けたら、城兵にも団子を配る」
「団子で落城させる気か!」利家。
「団子は正義」まつ殿がどこかにいる気がした。
(※いない。脳内ツッコミ。)
長照は、震えながら言った。
「……開ける。開けるから……」
「よし」お市様。
「ただし、条件がある」
「申せ」
「……兵を……辱めるな……」
「辱めぬ。簀巻きは辱めではない」
「辱めだ!」
「移動手段じゃ」
藤吉郎様が、淡々と締めた。
「城代殿。門を開ければ、あなたも兵も生き残る。
閉じれば――姫様が歌う」
「歌う……?」
「歌うと民が集まる」
「民……?」
「民が集まると、今川が恥をかく」
「……」
「恥は、胃に来る」
長照の顔が真っ青になった。
胃に来る。
それは、この世界で一番怖い。
「……門を開けろ……!」
――門が、開いた。
無血。
制圧。
正月の夜中に、城が落ちた。
◉桃の祐筆感想(狂犬記)
正月は休みではない。
姫様にとっては“節目”であり、“節目”は人が油断する。
姫様は油断を噛む。
水路潜入は、戦というより捕物で、しかし捕物より静かで、静かすぎて怖い。
誰も叫ばない。誰も血を流さない。
なのに、城が落ちる。
恐ろしいのは、姫様の強さではなく、姫様の“目的”が一貫していること。
「殺さない」
「家族を守る」
「働ける者は採用する」
その上で、敵を“逃がさない”。
姫様は、戦を“胃”で支配する。
――歌えば民が集まる。民が集まればメンツが潰れる。メンツが潰れれば胃が死ぬ。
まさに狂犬式。
利家殿は震えていた。
震えていても、縄を握った。
藤吉郎様は、利家殿に“学べ”と言った。
私は思った。鳴海の恐ろしさは、学ぶほど深い。
◉桃の日記
天文二十二年 一月一日 夕刻〜深夜 晴 月三日月 寒冷
一、大高城代鵜殿長照、十四日間の姫様の威圧行軍により疲弊。正月につき油断し、兵に酒を振る舞う。
一、鳴海城にて兵四百四十、無音無声に終結。早舟二十四艘をもって川を下り海へ出る。犬かき衆、櫓・カイにて全速。
一、大高城西の砂浜に上陸。警備薄く、潜入容易。
一、水路より侵入。殺傷を禁じ、制圧・簀巻きを以て拘束。主要拠点(詰所・兵糧・武具・井戸等)を確保。
一、城代鵜殿長照を確保。姫様、団子を鼻先に置き「腹が減ると判断を誤る」と仰せ。
一、藤吉郎様、交渉にて門を開かせ、無血制圧成立。
一、姫様の戦は、血よりも心理と秩序により城を落とす。恐るべし。
――祐筆 桃




