55話 狂犬お市様のお正月 ――正月?休み?うそだよ?――
西暦一五五三年(天文二十二年)一月一日 正月
尾張・鳴海城 評定の間
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
■お市様:新年の自己紹介が強い
「――わらわは十七歳じゃ!」
評定の間の上座。
深紅の鎧は今日だけお休みで、白と金の正月装束。
なのに圧が鎧級。顔が世界一の美貌だから余計に厄介だ。
「今日も、お肌はピチピチじゃの。世界一美しいゆえ、罪なおなごじゃ」
「姫様、その自己紹介、毎年更新されますね」藤吉郎様が静かに返す。
「当然じゃ。美は日々上書きされる」
「こわい」利家が素直に言った。
「何がこわい」
「“当然”がこわい」
「ほめ言葉じゃな」
正月。
本日は――訓練なし。
この一言が、鳴海城の全員を泣かせた。喜びで。
■台所:寧々・まつ・桃、戦場(正月編)
城中は朝から忙しい。
寧々殿が指揮、まつ殿が現場、私(桃)が帳面と味見担当。
狂犬堂社員が総出で、祝い膳が並ぶ。
「まつ、重箱!それ、上段が海の物で下段が山の物!」
「分かっとるわ!寧々は口も手も早すぎや!」
「早いのは当然。姫様の宴は遅れたら死ぬ」
「死なん!……たぶん!」
「死ぬのは胃です」私は小声で言った。
「桃、今“胃”って言うたな?」寧々殿が振り向く。
「言ってません」
「言うた」
「言ってません(強行)」
まつ殿が鍋を見て、ふっと笑った。
「……正月やし、今日は“ちゃんこ”ちゃうで」
「泣ける」私は本気で言った。
■評定の間:鳴海の“正月集合”が豪華すぎる
席に集まったのは――
お市様
藤吉郎様
寧々殿、まつ殿、私(桃)
さくら、あやめ、せつな
前田利家
町奉行:岡部元信
鳴海同心 五十名(深紅に白のダンダラ、派手すぎて正月の鯛が霞む)
料理はまとも。酒もまとも。空気だけ狂犬。
お市様が、最初に杯を取り上げた。
全員の杯に、ひとつひとつ酒を注いで回る。
「岡部」
「はっ!」
「去年は胃が死にかけたのによく耐えた。胃が生きておるのは努力じゃ」
「胃で褒められるとは……この岡部、感涙にございます」
「同心たち」
「はっ!」
「鳴海港、村、漁村、詰所の夜番、ようやった。弱き者の声なき声――忘れぬのは偉い」
同心たちの目が潤む。
今川にいた頃は、こんな言葉を主君から聞いたことがない。
“命を守れ、だが殺すな”を貫く治安役人など、夢物語だったからだ。
お市様は返杯を受けながら、全員を目を見て褒める。
細かい。具体的。逃がさない。
「寧々」
「はっ!」
「鳴海の診療所、薬箱の補充、団子の仕入れ、全部抜け目なし。丸投げに耐えたのは偉い」
「“耐えた”って言いましたね今!」
「褒めておる」
「言い方ぁ!!」
「まつ」
「はい!」
「狂犬堂津島の売上、伸びたの。町娘の雇用も増えた。……あと、利家を連れてきたの、えらい」
「そこ褒めるん!?」利家がビクッとする。
「褒めて伸ばす」
「こわい伸び方しそう!」
さくら、あやめ、せつなにも順に声をかける。
諜報の成果、放火や流言飛語の“効き方”、そして“やりすぎない加減”まで。
全員、背筋が伸びる。
褒められているのに、なぜか反省会が始まるからだ。
■利家:正月に“まともな飯”を食ってるだけなのに震える
「……鳴海、すげぇな」利家が小声で言う。
「何がです?」藤吉郎様。
「料理が普通」
「正月ですから」
「正月ってすげぇ」
利家は杯を持って、同心たちを見回した。
深紅に白のダンダラの大集団。正月のめでたさを超えて、祭りの山車だ。
「なぁ、藤吉郎。あの同心服、派手すぎじゃね?」
「姫様の趣味っす」
「姫様の趣味って、だいたい“戦”じゃね?」
「概ね正解っす」
利家が笑いかけた、その瞬間。
■お市様:宴のど真ん中で、顔が“作戦”になる
宴もたけなわ。
酒も回り、同心たちが「うまい、うまい」と泣きそうになっていた時。
お市様が、ふっと杯を置いた。
笑顔は変わらない。
けれど目が――戦場の目になる。
「藤吉郎」
「はっ」
そこから先は、空気が一枚変わった。
正月の屏風が“作戦図”に見えてくるやつだ。
「本日、夜中――大高城を攻め落とす」
「……」
評定の間が凍った。冬だからではない。
「ただし」
お市様は指を一本立てる。
「殺してはならぬ。一晩で落とす」
岡部が、目を見開いた。
同心たちは背筋を正し直した。
“攻める”と“殺さぬ”を両立させるのは、最も難しい。
だが鳴海の狂犬は、それを“当然”で言う。
「編成を告げる」
「わらわ、愛部二百」
「藤吉郎、犬かき衆百」
「利家、犬かき衆百」
「さくら、あやめ、せつな」
「諜報・通信・補給・兵站維持、四十」
「……はい」藤吉郎様が頷いた。
利家は固まった。
「え、俺?正月の次が夜襲?」
「正月だからこそじゃ」
「理屈が狂犬!」
お市様は続ける。
「攻め落としたら――」
今度は、あやめを見た。
「あやめ。三河、遠州、駿河に流言飛語。反乱、内乱、謀反――ばらまけ」
「承知」
「二万貫用意せよ。足らねば追加で五万貫」
「追加の単位が戦……」私が震え声で呟くと、寧々殿が即座に刺した。
「桃、帳面、死ぬで」
「もう死んでます」
次に、せつなと岡部へ。
「せつな、岡部、鳴海同心。
今川方、常滑城、緒川城、刈谷城に流せ」
「――岡部が狂犬の仕打ちに耐えられず、鳴海で兵三百と内乱を起こす。よって鳴海に出陣されたし――とな」
岡部が顔面蒼白になった。
「ひ、姫様、それは……私が……悪役に……」
「悪役でよい。釣りだすのが目的じゃ」
同心たちがざわつく。
だが、せつなが笑って肩を叩く。
「奉行、安心して。釣り針は私たちが持つ」
「釣り針って言うな!」利家が反射でツッコむ。
「正しいツッコミだ、利家」藤吉郎様が真顔で褒める。
「褒めるな、怖い!」
お市様が、最後に畳みかけた。
「必ず三つの城から、常滑衆、緒川衆、刈谷衆を釣り出せ」
「野戦で撃破、追撃」
「追撃に入り、緒川、刈谷の両城を奪う」
「野戦撃破後、藤吉郎は常滑衆を調略」
藤吉郎様が短く答えた。
「承知」
利家が喉を鳴らす。
「……正月、終わったな」
「始まっただけじゃ」お市様がにっこり。
「なにが!?」
「今年の尾張が」
■作戦の締め:早舟で海へ、大高を西から
「本日夜中をもって――」
お市様が指を鳴らす。
「兵四百四十、早舟で川を下り、海へ出て、大高城を西から撃破占領」
岡部がハッと顔を上げた。
城下整備で作った“港”が、ここで繋がる。
外堀を広げ、扇川と連結し、早船が出入りできるようにした――
あれは、正月の景気づけではない。
今日のための港だったのだ。
「……姫様」岡部が震え声で言う。
「はい」
「城下整備は、この日の布石で……」
「今ごろ気づいたか。胃が治ったから頭も回るの」
「皮肉が優しい!」
お市様は立ち上がり、杯を取り直した。
「準備をおこたるな。以上!」
――以上。
正月の宴の締めが、命令の締めと同じ言葉で終わった。
◉桃の祐筆感想(狂犬記)
正月に訓練がないと、皆が笑った。
だが姫様は、休みを“緩み”として使わない。
休みを、油断に見立て、敵の油断も同時に奪う。
褒めて、杯を注いで、心をほどいて。
その最中に命令を落とす。
誰も逆らえない。
なぜなら、姫様は一人一人の努力を見て、名で呼び、目を見て褒める。
だから「この人のために」と思ってしまう。
怖いのは戦ではない。
姫様の“人の使い方”である。
狂犬は牙だけではなく、手が上手い。
……なお、二万貫、五万貫という言葉が、正月の膳より重い。
帳面が先に死ぬ。
私の胃薬も増やすべきだ。
◉桃の日記
天文二十二年 一月一日 晴 寒冷
一、鳴海城にて正月祝宴。訓練休止につき、城中の者の表情明るし。
一、寧々殿・まつ殿、ならびに狂犬堂社員、祝い膳を整える。料理、平素のちゃんこと異なり、誠に佳し。
一、評定の間にて、お市様、藤吉郎様、寧々殿、まつ殿、桃、さくら、あやめ、せつな、前田利家殿、町奉行岡部元信、鳴海同心五十名参集。
一、お市様、各員に酒を注ぎ、前年の働きを詳細に褒め、目を見て言葉を渡す。岡部および同心一同、深く感銘を受ける。
一、宴たけなわの折、お市様より極秘命令下る。
・本日夜中、大高城を攻め落とす。但し殺傷を禁ず。
・編成:愛部二百、犬かき衆二百(藤吉郎百、利家百)、諜報通信補給兵站四十、他。
・あやめ、三河・遠州・駿河に流言飛語等を布き、二万貫を用意(不足時追加五万貫)。
・せつな、岡部、同心にて常滑・緒川・刈谷へ「岡部内乱」流言を流し、敵兵を釣り出す。野戦撃破の後、緒川・刈谷を奪取。常滑衆は藤吉郎様が調略。
・早舟にて川を下り海へ出て、西より大高を衝く。
一、城下整備にて港化した扇川連結の意図、ここに明瞭となる。
――祐筆 桃




