51話 狂犬お市様の診療所――白衣と歌舞伎者
西暦一五五二年(天文二十一年)十月下旬 晩秋
尾張・鳴海城下/鳴海狂犬堂横・診療所
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
■桃視点:白衣の狂犬、今日も走る
鳴海の朝は、鐘ではなく咳で始まる。
診療所の戸が開くたび、風と一緒に人の不安が入ってくる。
妊婦、子供、女性、老人――その順で診る。
それが狂犬様の決めた“規則”だ。
規則は短い。だが破られない。
「次、赤子」
「はい」
「次、腹が大きい」
「はい……」
白衣の狂犬様は、髪をまとめ、袖を捲り、迷いなく脈を取る。
さくらが湯を運び、あやめが薬草を刻み、せつなが帳面を持つ。
「冷えじゃ。足首を温めよ」
「これは?」
「団子。腹の子に甘い」
妊婦に渡されるのは狂犬印の団子。
子供には狂犬印の煎餅。
原則、薬は無料。
――ただし。
「……あの、咳が」
「誰じゃ」
「わしです」
「男か」
「はい」
「有料じゃ」
「はい……」
むさい男には、容赦がない。
優しさは平等だが、財布は平等ではない。
それで町は回る。
昼過ぎ、急患の知らせが入った。
豊臣号が鳴る。
「行く」
狂犬様は白衣のまま跨り、さくらが後ろに跳ぶ。
馬が風になる。
家に着く。処置。戻る。
夕刻、診療所は一段落した。
私は帳面を閉じ、深く息をつく。
「……今日も生きた」
「祐筆、声が小さい」
「生きました!」
狂犬様は笑った。
その笑顔が、今日も何人かを救った。
■異物、来訪
戸口が、ぎぃと鳴った。
診療所の空気が、変わる。
――派手だ。
羽織は派手。
髪も派手。
態度も派手。
だが、目だけが妙に真っ直ぐ。
「……おお?」
せつなが小さく声を上げる。
男は、診療所を一周見渡し、にやりと笑った。
「ここが、噂の狂犬様の診療所かい」
その声、低くてよく通る。
町の男だ。武家だ。――歌舞伎者だ。
狂犬様は、振り向かない。
包帯を結び、子供の頭を撫で、淡々と言う。
「次は誰じゃ」
男は肩をすくめ、一歩前に出た。
「……診てもらいてぇのは、胃だ」
「男か」
「そうだ」
「有料じゃ」
「覚悟はある」
診療所が、ざわっとした。
“覚悟”なんて言葉、診療所では珍しい。
狂犬様は、ようやく顔を上げた。
視線が、ぶつかる。
――静かだ。
音が消える。
「名は」
「前田利家」
その名に、さくらの手が止まり、あやめの刃が止まり、せつなが帳面を落とした。
私は、心の中で叫んだ。
来た。
狂犬様は、表情一つ変えない。
「……胃が、どうした」
「ずっと、痛ぇ」
「何時から」
「さっき、呼ばれてから」
「それは心因性じゃ」
診療所に、笑いが落ちた。
利家は目を丸くする。
「心因性?」
「まつに呼ばれたろ」
「……なんで知ってる」
「噂じゃ」
利家は、吹き出した。
「噂で診断する医者は初めてだ」
「だが当たる」
「……当たってる」
狂犬様は顎で示す。
「座れ」
利家は、素直に座った。
歌舞伎者のくせに、妙に素直だ。
狂犬様は、脈を取り、腹を軽く押す。
「……丈夫じゃな」
「そうでもない」
「嘘つけ。槍振りだろ」
「……はい」
診療所の空気が、ぴんと張る。
「槍は好きか」
「好きだ」
「民は」
「……守りたい」
一瞬。
狂犬様の目が、柔らいだ。
「なら、胃薬を出す」
「助かる」
「代わりに、質問に答えよ」
「診療所で面接か?」
「違う。問診じゃ」
利家は笑った。
「いいぜ。噂の狂犬様の問診ならな」
狂犬様は、薬包を置く。
「――鳴海で、働く覚悟はあるか」
診療所が、静まり返った。
利家は、薬包を見て、白衣を見て、町を見た。
そして。
「……胃が、もっと痛くなった」
「まだじゃ」
「だろうな」
利家は、立ち上がり、深く一礼した。
「前田利家、診療、感謝する」
狂犬様は、にやりと笑う。
「診療は、ここまでじゃ」
――次は、面接だ。
◉桃の祐筆感想
鳴海の診療所は、戦場より静かで、戦場より命が近い。
白衣の狂犬様は、歌わず、吠えず、ただ診る。
そして今日、歌舞伎者・前田利家が現れた。
派手で、真っ直ぐで、胃が弱い。
狂犬様は、彼を“診た”。
だがそれは、身体だけではない。
この町で、何を守れるか。
それを見たのだと思う。
次は、面接。
――胃薬が、足りない。
◉桃の日記(丁寧)
天文二十一年 十月下旬
一、鳴海診療所は本日も稼働。妊婦・子供・女性・老人を優先し診療。薬は原則無料、男性は有料。
一、急患対応として、豊臣号による往診を実施。迅速な処置により回復。
一、夕刻、歌舞伎者・前田利家来訪。主訴は胃痛。診察の結果、心因性と判断。
一、利家は槍働きの経験あり、体躯頑健、民を守りたい意志を確認。
一、狂犬様は薬を処方しつつ、覚悟を問う。次回、面接へ移行予定。
――祐筆 桃




