45話 狂犬お市様の狂犬式交渉術 ――胃痛の評定、銭の決裁、そして人の命――
西暦一五五二年(天文二十一年)五月下旬 初夏
尾張・清州城 評定の間
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
■桃視点:鳴海、落ちた。いや、飲み込まれた。
鳴海城は落城した。
と、史書風に書けばそうなるが――実態は違う。
火矢は飛ばず、城門は破られず、血溜まりもできない。
代わりに増えたものがある。
簀巻きが二つ。
山口教継(父)と、山口教吉(子)。
それと、血を吐いて倒れた岡部元信。
簀巻き二名と岡部は、熱田の狂犬堂へ連行。
山口家・岡部家の家族は、狂犬堂長屋に一時預かり。
鳴海城の城兵は装備を解き、村へ帰った。
……普通、落城後は城兵を拘束し、家族を人質にし、見せしめにし、斬る。
戦国の「戦」は、だいたいそういう味がする。
けれど、うちの姫様は。
「人は殺さぬ。使う。食わせる。笑わせる」
「その方が長く儲かる(雑)」
最後が雑である。
そして鳴海には――
藤吉郎様、さくら、あやめ、せつなの四人だけが留守番。
城に兵はいない。
いや、いるのはいる。胃痛が。
「……桃、わし、胃が……」
「藤吉郎様、顔色が死人です」
「いや殺されてないから! 生きてるから!」
「生きてる人の顔じゃないです!」
藤吉郎様は、恐ろしく緊張していた。
姫様が“兄上に報告に行く”と言ったからだ。
――あの兄上、信長様。
うつけと呼ばれ、時に第六天魔王とか自称し、しかし本当は家族思いで優しい。
ただし、織田家当主として、容赦がない。
その信長様の前へ、狂犬お市様が行く。
しかも、鳴海を丸のみした報告に。
胃が、無事なわけがない。
■清州城へ帰城:権六殿、なぜかウキウキ
狂犬お市様は、権六殿を伴って清州へ帰城した。
権六殿――柴田勝家。鬼柴田。
武の筆頭。先鋒大将。
なのに今日は町人風の羽織で、顔が妙に明るい。
「権六殿、機嫌がよろしいですね」
「姫様の“報告”に同席できるのだぞ。光栄であろうが」
「……それ、推し活では?」
「推し活ではない。警護だ」
「推し活ですよ」
「警護だ」
「推し活です」
押し問答が続くが、権六殿は折れない。
そして姫様は大欠伸。
「ふぁ……清州、遠いのう」
「姫様、道中に湯浴み三回、団子二回、握手会(雑)一回してます」
「ファンは大事じゃ」
「戦の帰りです」
「戦の帰りでもファンはファンじゃ」
尾張とは、こういう土地だ。
祭りと市が多く、人の集まりが早い。
清州から熱田、津島へと水運が走り、街道が血管のように伸びる。
そして姫様は、その血管に銭と噂と歌を流し込む。
――怖い。
■評定の間:胃痛の開口一番
清州城、評定の間。
信長様が座している。
周囲に織田家家臣団。
……目が死んでる人が多い。戦のせいではなく、姫様のせいだ。
信長様が額を押さえ、開口一番。
「市よ、胃が痛いうっ」
お市様は、にこり。
世界一美しく、世界一危険な笑みで一礼。
「兄上、ご機嫌よう」
「よくない!!」
即ツッコミ。
この兄妹の会話はテンポがよい。胃に悪いテンポで。
権六殿が胸を張る。
家臣団が、内心で(あ、今日は荒れる)と悟る。
私は筆を握り、覚悟を決めた。
――記録は命がけである。
■狂犬式交渉術(その一):まず褒めて、壁にする
「兄上!」
姫様、声を張る。
「兄上は、今川義元とは違い、感服しましたぞ!」
家臣団が「は?」という顔になる。
信長様も「は?」という顔になる。
姫様は続ける。
「権六一人を、後詰めにお付けくださり、ありがとうございまする」
「……一人言うな」
どこからともなく小声のツッコミが飛ぶ。たぶん佐久間殿。
姫様、さらに畳みかける。
「権六は織田の武の象徴!」
「わらわより弱いが、壁として使えまする!」
「褒めてない!!」
信長様が胃を押さえる。
権六殿は、なぜか感動している。
「姫様……! 壁でもよい! 姫様の盾となりましょうぞ!」
「壁は盾ではない」
「似たようなものだ!」
「似てない」
評定の間、早くもカオス。
信行様が遠い目をしている。
平手正秀殿が“悟り”の顔をしている。
丹羽長秀殿が、胃薬の袋を握りしめている。
信長様が低く言う。
「市……本題を言え」
その声は厳しい。
だが、姫様の無茶を止めようとしている“兄”の声でもあった。
■狂犬式交渉術(その二):成果を既成事実で叩きつける
「承知」
姫様、涼しい顔。
「鳴海城、無血開城にて――丸のみしましたぞ」
ざわり。
「……丸のみ?」
誰かが復唱した。丹羽殿だろうか。
「うむ。城も兵も心も、まるっと」
「言い方が怖い!!」
信長様は、しばし沈黙した。
そして、ゆっくり問う。
「……犠牲は」
姫様は即答。
「織田方の死者はほぼ無し。敵方も致命傷は避けた」
その瞬間、信長様の眉間の皺が、ほんのわずか緩む。
――優しい。
だが、すぐ当主の顔に戻る。
「なら、なおさら、次だ」
「鳴海をどうする」
「わらわが城代として抑えます」
姫様は、まっすぐ言った。
■狂犬式交渉術(その三):褒美を「人」で要求する(※胃痛増量)
「ゆえに」
姫様、指を立てる。
「岡部、山口親子、城兵と、みなの家族を――」
「わらわに褒美としてもらいたい」
評定の間が一瞬凍る。
人を褒美にする――戦国では珍しくない。
だが、姫様の言い方が、あまりに“買い物”である。
「市!」
信長様の声が鋭くなる。
ここで信長様は怒鳴り散らさない。
怒りを飲み込み、当主として“責”を確認する。
「人を預かるというのは、」
「喰わせる責も、守る責も、病の責も、」
「泣く責も、笑う責も、全部お前が背負うということだ」
姫様は、笑みを消した。
ちゃんと、まっすぐ頷く。
「承知の上」
信長様の目が揺れる。
その揺れは、妹を案じる“家族”のもの。
だが、言葉は厳しい。
「お前はいつも、背負い過ぎる」
姫様は肩をすくめた。
「兄上はいつも、胃を痛め過ぎる」
「それはお前のせいだ!!」
家臣団が一斉に俯く。
笑ってはいけない。笑うと胃が裂ける。
■狂犬式交渉術(その四):安心材料を先に出す(銭で)
姫様は、息を整え、柔らかく言う。
「兄上、ご安心を」
「わらわが今川の先鋒になりますゆえ」
「……先鋒?」
信長様が眉を上げる。
「今川の矢面は、わらわが受ける」
「兄上は尾張をまとめよ」
信長様は、妹の無茶を咎めたい。
だが同時に、その“覚悟”に救われてもいる顔をした。
――家族思いで優しい、が、当主として厳しい。
その二つが、同じ目の中にある。
「税の方は、毎年銭で上納いたします」
「とりあえず、十万貫。今年分を」
ざわっ。
「十万貫!?」
誰かが声を漏らす。
戦国小ネタで言うなら、銭十万貫は桁が狂っている。狂犬堂は狂っている。
「狂犬堂から、寧々とまつが、あとから持って参ります」
「ご容赦を」
信長様は、深く息を吐いた。
胃痛の息だ。
だが、その後、静かに言う。
「……市」
「お前は、勝手に稼いで、勝手に背負って、勝手に差し出す」
「わしの仕事を増やすな」
姫様は、にやり。
「増やしておらぬ。減らしておる」
「鳴海は落ち、今川は混乱し、尾張は守られた」
「兄上は胃を痛めるだけでよい」
「それが一番嫌だ!!」
ツッコミが炸裂する。
■信長の裁断:優しさと厳しさ
信長様は、しばし沈黙した。
評定の間は、静かになる。
姫様も黙る。権六殿も黙る(珍しい)。
家臣団は“胃”の音しか聞こえない。
やがて信長様は言った。
「鳴海は織田の城とする」
「城代は――市、お前だ」
姫様の目が、ほんの一瞬だけ丸くなる。
そして、すぐ笑う。
「かたじけない」
信長様は続ける。
「人の件は……」
「――好きにせよ」
家臣団がどよめく。
だが、信長様はそこで終わらせない。
「ただし」
声が厳しくなる。
当主の声だ。
「一人でも不幸にしたら、」
「その責は全部、お前に返る」
「わしは助けん」
姫様は、深く頭を下げた。
「それでよい」
顔を上げ、言った。
「兄上は優しいの」
「だから、厳しくしてくれて助かる」
信長様は、目を伏せた。
そして小さく、吐き捨てるように――しかし兄の声で。
「……無事で戻れ」
姫様は、笑った。
狂犬の笑みではなく、妹の笑み。
「承知」
◉桃の祐筆感想
今日の評定は、戦より怖かった。
姫様は“狂犬式交渉術”を使い、兄上の胃を削りながら、鳴海を丸ごと勝ち取った。
けれど、私は見た。
信長様が、怒りだけで動いていないことを。
妹を案じ、背負わせ過ぎぬように釘を刺し、
それでも妹の覚悟を信じて、任せたことを。
当主としての厳しさは、家族を守るための鎧。
家族思いの優しさは、その鎧の内側にある。
姫様は、狂犬である。
しかし人を殺さず、人を抱え込み、働かせ、食わせ、笑わせる。
それは乱暴で、雑で、怖いが、確かに“生かす戦”だ。
私は祐筆として、誇りと恐怖を同時に抱いた。
そして胃薬を増産すべきだと確信した。
◉桃の日記
・本日、清州評定。胃痛患者多数。特に信長様。
・信長様は本当は優しい。だが当主として厳しい。あの二つが同時にあるのが強い。
・姫様は褒めてから刺し、銭で縫う。狂犬式交渉術、恐ろしいほど合理的。
・鳴海の人々は狂犬堂長屋で一時預かり。明日以降、面接と配置。
・藤吉郎様たちは鳴海留守番。緊張で顔が白い。戻ったら胃薬を飲ませる。
・私も胃が痛い。だが、記録は楽しい。祐筆はやめられない。
・追伸:権六殿、推し活を「警護」と言い張る。
……警護でも推し活でも、姫様が無事ならそれで良い。




