38話 鳴海城に狂犬が吠える!!! ――**「城を落とさない攻城戦」**の始まり――
西暦一五五二年(天文二十一年)五月下旬 初夏
尾張・赤塚→鳴海街道/鳴海城外
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
■桃視点:狂犬、ゆるゆる進軍(※怖い)
赤塚が終わった。
――いや、終わってない。
織田の軍勢は撤収した。
撤収しなかったのが、うちの姫様である。
赤塚の戦場から、鳴海へ。
普通なら、戦の後は急ぐ。
普通なら、兵站とか、警戒とか、斥候とか、色々ある。
普通なら。
「……湯浴みじゃ」
「え?」
うちの姫様――狂犬お市様は、豊臣号の上で欠伸をしながら言った。
「汗かいた」
「いや、戦の後で湯浴みって……」
「汗は敵」
「何の敵ですか」
「美貌の敵」
すぱん、と言い切った。
結果。
途中の村で湯浴み。
途中の村でご飯。
途中の村で握手会(※なぜ)。
途中の村で三味線(※なぜ)。
途中の村で「狂犬堂の胃薬」試飲会(※やめて)。
そして。
道の真ん中で、あの簀巻き――山口親子。
父は白目をむいたまま。
子は口が縄で塞がれて、呻けない。
姫様が、気まぐれに言う。
「……桃」
「はい(嫌な予感)」
「エサやれ」
「え、誰に」
「簀巻きに」
「えっ、簀巻きに!?」
「死なれても困る」
「いや、死んで困るのは“普通”の感覚だと逆なんですが!?」
姫様は、にこっ。
「生かして使う」
「使うって何に!?」
「岡部の胃に」
――怖い。
この姫様、優しさの顔で拷問を考えるタイプである。
簀巻きの子が「ん゛ん゛ん゛!」と暴れた。
姫様が、優しく頭を撫でた。
「よい子じゃ」
「何がよい子ですか」
「よいエサじゃ」
私は、胃がキリキリした。
でも、不思議と周りの村人は笑顔だ。
「姫様ー!」「握手ー!」
「姫様ー!」「三味線もう一曲ー!」
「姫様ー!」「煎餅の匂いが今日も最高ー!」
狂犬堂の袋を抱えた子供が走り回る。
村の女衆は髪を結い直してもらって、ほっぺが桃色だ。
男衆は「お市様命!」を喉が潰れるほど叫んでいる。
――この状況で、簀巻きが引きずられてるのに。
「これが……狂犬式ファンサ……?」
私は自分で書いてて、意味が分からなかった。
姫様は、豊臣号を軽く叩いた。
「ゆるゆる行くぞ」
「はい」
「焦るな」
「はい」
「焦るのは岡部じゃ」
「……はい?」
姫様は笑って、髪を払った。
「鳴海に着いたとき、岡部の心が先に折れておれば勝ちじゃ」
言いながら、平然と団子を食べた。
私は震えながら、日付を書いた。
――この日を、必ず記録せねばならぬ。
■鳴海城外:静かすぎる城
鳴海が見えた。
城は――静かだった。
静かすぎた。
太鼓も鳴らぬ。
矢を番える気配も薄い。
城門の上の見張りが、眠そうに欠伸をしている。
……え?
「へたれた警備じゃの」
姫様が、鼻で笑った。
「狂犬様が来たのに、鐘も鳴らさぬ」
「……気づいてないんですかね」
「気づいてないなら、さらに糞じゃ」
姫様は豊臣号の首を鳴海へ向けた。
そして――
**鳴海城から“見える位置”**まで、堂々と進んだ。
城の正面、少し外れ。
城の上からも、人の姿が分かる距離。
姫様は、そこで止まった。
足元に、簀巻き二つ。
父(白目)
子
姫様は、城を見上げたまま、ぼそりと言った。
「……岡部は」
「はい」
「鳴海が落としにくいと、亀のように籠もっておる」
「はい」
「糞じゃな」
言葉が強い。
しかし声は、妙に静かで、冷たい。
私は思った。
――この静けさは、嵐の前だ。
姫様は、豊臣号の鞍の上で背筋を伸ばし、
城をにらんだ。
動かない。
笑わない。
歌わない。
ただ、見ている。
城の上の見張りが、ようやく気づいたらしい。
ざわ、と人が動く。
でも遅い。
姫様が小さく言った。
「気づいたか」
「……気づきましたね」
「遅いのう」
「遅いですね」
「わらわの到着に、鐘を鳴らすのが礼儀じゃろ」
どんな礼儀だ。
姫様は、足元の簀巻きを指でつついた。
子が「ん゛!」と鳴いた。
「岡部に見せる」
「……はい」
「エサは新鮮なほど良い」
私は、胃薬を飲んだ。
■その頃:藤吉郎、土嚢で城を殺す準備
その頃――藤吉郎様は、城外にいなかった。
鳴海周辺。
さらに知多の村まで。
藤吉郎様は、汗だくで回っていた。
「土嚢一つ! 百文で買い取る!」
「詰めたら百文!」
「運んだら追加で団子一串!」
「嘘じゃない! 狂犬堂が払う!」
村人たちが止まる。
「……百文?」
「百文!?」
「土詰めるだけで?」
「ほんとかよ」
藤吉郎様は、にこっと笑った。
――昔の“光る光る藤吉郎”の笑顔だ。
「ほんとです」
「姫様の命です」
「土を詰めて、鳴海へ運べば、百文です」
村の男衆がざわつく。
「百文あったら、酒が飲めるぞ」
「百文あったら、味噌が買えるぞ」
「百文あったら、嫁の機嫌が直るぞ」
藤吉郎様が、真顔で言った。
「嫁の機嫌は直りません」
「なんでだよ!」
「それは……」
「それは?」
「……人間の業です」
村人が大笑いした。
笑いながら――動く。
「やるか!」
「やるぞ!」
「土嚢だ!」
「鳴海だ!」
藤吉郎様は息を吐いた。
「よし……動いた」
「藤吉郎さま、ほんまに百文払うん?」
「払う」
「狂犬堂、太っ腹やな」
「姫様の財布は底が抜けてる」
村人が笑い、土を掘り始めた。
――戦は、刀だけじゃない。
藤吉郎様は、そこまで理解していた。
そして彼は、心の中で必死に考えている。
(姫様の意図は――城を“殺す”ことだ)
(攻めずに、出られずに、呼吸できずに)
(……岡部の心を折る)
藤吉郎様は、目を細めた。
「……これが狂犬式か」
嫌そうに言って、でも、ちょっと誇らしそうだった。
■その頃:伊賀へ走る三人娘
さくら、あやめ、せつな――
三人は、もう伊賀へ向けて走っていた。
「父ちゃん、泣くやろなぁ」
さくらが呟く。
「泣くのはええ、問題は抱きついて離さんことや」
あやめが冷静に言う。
「せつな、絶対、父ちゃんに乗せられて土産話盛るなよ」
「えー? 盛るやろ、盛ったほうが可愛いし」
「可愛いで仕事が増えるんや!」
「増える仕事は鍛錬や! 嫌いちゃう!」
「嫌いじゃなくても限度がある!」
三人は走りながら笑っていた。
でも目は真剣だ。
狂犬直轄の諜報員として。
初陣で生き残った者として。
今度は――国そのものを揺らしに行く。
◉桃の感想(祐筆)
鳴海城は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
でも、一番怖いのは、
城の前で動かず、ただ見上げる姫様である。
あれは怒っている。
怒っているのに、笑っていない。
――鳴海は、終わる。
◉桃の日記
・途中の村で湯浴みしてファンサして団子食べて簀巻きに餌やった。
意味が分からないのに、民は笑顔。
・鳴海城、気づくのが遅い。へたれ警備。
・姫様、城から見える位置で陣取り、動かない。
嵐の前。
・藤吉郎様、百文で土嚢を集める。人が動いた。
・三人娘、伊賀へ走った。口が回りすぎて心配。




