35話 赤塚の戦い その4 ――開戦の狼煙!――
西暦一五五二年(天文二十一年)五月下旬 初夏 尾張・赤塚 午前
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
赤塚の野は、初夏の匂いがした。
田の水が光って、風がぬるい。――平和の匂い。
なのに、目の前だけが、戦だった。
山口親子の軍勢――兵力一二〇〇(流言飛語で減少中)。
織田家臣団――兵力八〇〇。
数で負けてる。普通なら胃が痛い。
……胃が痛い人は、ここにいた。
「……よし。いくぞ。いくぞお前ら……!」
信長様はやる気マンマン。目がギラギラ。
ギラギラしすぎて、腹を押さえている。
「兄上、胃が痛いのにやる気だけは一丁前じゃの」
「うるせえ市ぃ! こっちは喪主で疲れてんだよ!」
「胃薬いるか?」
「いる!!」
「素直でよろしい」
丹羽長秀殿(米五郎又)がすっと出て、薬包を差し出す。
「信長様。狂犬堂の胃薬でございます。効きます」
「……丹羽、なんでお前まで“狂犬堂”って言うの、普通に言え」
「皆がそう呼びますので」
「世の中が狂犬に染まってるのやめろ!」
信行様は本陣の端で空を見上げて、ぽつり。
「草……抜きたい……」
「今それ言うな!!」信長様が叫ぶ。
「兄上、信行兄上は草取りが心の平穏なのじゃ。許してやれ」
「戦場で平穏求めるな!!」
私は筆を握りしめ、心で泣く。
戦の前に胃と草。尾張は今日も平和じゃない。
◆本陣で“作戦会議”っぽい何か
信長様が軍配を握り直し、咳払いをした。
「……市。作戦は――」
「兄上、作戦は?」
「まずは先鋒から。弓合わせで――」
「湿っぽいのう」
「は?」
「兄上、カビが生えるぞ兄上」
「生えねえよ! 弓合わせは儀式だ!」
「儀式が好きなのは寺だけでよい」
「好きじゃねえ! 必要なんだ!」
「……わかった。兄上が合わせるのなら、わらわも合わせる」
「お、珍しく素直――」
信長様が安堵した、その瞬間。
お市様が、豊臣号の腹を軽く蹴った。
「豊臣号、前へ」
「……は?」(信長様)
「姫様?」(丹羽殿)
「姫様?」(私)
「退屈じゃ」
「退屈で前へ出るな!!」
「兄上、戦は“はよ終わらせる”に限る」
「それを今言う!?」
お市様は背中から、骨太い津軽三味線(狂犬仕様)を抜いた。
「桃」
「は、はい!」
「記録せよ」
「え、今からですか!?」
「今からじゃ」
「私、死にます!!」
「死ぬな」
「雑!!」
◆にらみ合いの中で、じょんがらが鳴る
織田八百と、敵一二〇〇。
弓が上がり、槍が揺れ、息が止まる。
そのど真ん中へ――
深紅の鎧の狂犬が、ズンズンと歩いていく。
「姫様! 前へ出過ぎでございます!」
柴田権六勝家様(鬼柴田)が慌てて追う。
……追う理由? 護衛(建前)で推し活(本音)である。
「権六、声がでかい」
「はい!!」
「返事もでかい」
「はい!!!!」
「落ち着け」
「はい!!!!!!」
敵味方が「なんだあれ…」とざわつく。
その時。
――ベンッ!
尾張じょんがら節。
戦場に三味線の音が落ちた。
「……あ、あの姫、戦場で弾いてるぞ」
「狂ってる」
「いや、狂犬だ」
お市様は平然と弾きながら、振り返り、にこりと笑った。
「織田家臣団よ」
声が通る。甘くて刃物みたいな声だ。
「燃えておるか?」
織田の兵が「……え?」と固まる。
「気合いじゃ!」
「……」
「歌え! 叫べ!」
「……」
「わらわの唄を聞いて突撃ぞ!」
兵たちの顔が、じわっと変わる。
不安が、熱に変わる。
お市様が弾き語りを切り替えた。
「――俺たちの織田家臣団!」
ベン! ベベン!
歌が始まった。
最初は、ぽつぽつ。
次に、波。
そして、一気に嵐。
「♪俺たちの織田家臣団――!!」
「おおおおおお!!」
「うぉぉぉぉ!!!」
「姫様ぁぁぁ!!」
柴田権六が拳を突き上げた。
「姫様ぁぁぁ!! うおおおおお!!」
「推し活やめろ権六!」(信長様)
「推し活ではございません!! 士気向上です!!」
「言い訳が上手くなってる!!」
丹羽殿が、ぽかんと呟く。
「……兵が勝手に整っていきます」
信行様が小さく拳を握った。
「……草、抜く気が消えた」
「消えるな、戦いに集中しろ!」(信長様)
私は筆を握りしめ、叫びたい。
(戦場で合唱してる時点で、既に狂犬仕様なんですよ!!)
◆バーサーカー織田、突撃
歌いながら、兵が前へにじり出る。
怖さが消えてる。
いや、怖さを“勢い”で踏み潰してる。
お市様が三味線を背中へ戻し、ガントレットをギチ、と鳴らした。
「よいか!」
声が落ちる。戦場が静まり返る一瞬。
「突撃じゃ!」
「うおおおおおお!!!」
「割れに続け!」
「いざ、突貫せよ!!」
豊臣号が、いきなり速度を上げた。
深紅の狂犬が先頭。
織田八百、バーサーカー状態で突貫。
推し活中の権六が吠える。
「突撃ぃぃぃ!! 姫様ぁぁぁ!!!」
「権六、声!」
「はい!! 突撃ぃぃぃ!!!」
「直ってない!!」
……そして。
本陣に取り残される三人。
信長様。
信行様。
丹羽殿。
「…………」
信長様が、ゆっくり振り返った。
「……おい丹羽」
「はい」
「本陣って、こんなに静かだったか?」
「普段は静かでございます」
「今だけ静かにするな!!」
信行様がぽつり。
「……草、抜ける」
「抜くなぁぁぁ!!」
丹羽殿は冷静に言う。
「信長様、我々も前へ――」
「行く!! 行くに決まってんだろ!!」
「胃は?」
「痛い!! でも行く!!」
「胃薬、追加で」
「くれ!!」
◆正面衝突、敵が割れる――山口親子が見えた!
織田の突撃が、敵陣にぶち当たる。
ドンッ!!
槍の音、叫び、土煙。
「押せぇぇぇ!!」
「姫様ぁぁぁ!!」
「尾張ぃぃぃ!!」
敵一二〇〇が、歌の勢いと突撃の圧で、ぐらりと揺れた。
割れる。裂ける。
道ができる。
――奥に、見えた。
山口親子。
お市様が、目を細めた。獲物を見る目。
そして叫ぶ。
「見つけたぁぁぁ!!」
豊臣号が、そこへ一直線。
「藤吉郎!」
「はい!!」
「さくら!」
「はいっ!!」
「あやめ!」
「はい!!」
「せつな!」
「はいはい!!」
お市様が指を突き出す。
「全速前進!!!」
「了解!!!」
藤吉郎とくのいち三人――深紅の紅備が、風になる。
「藤吉郎! 足狙い忘れたらあかんよ!!」
後方から、寧々の声が飛ぶ。
「言うまでもない!!」藤吉郎が叫び返す。
さくらが笑う。
「初陣だぁぁ!」
あやめが冷静。
「目標、山口親子。捕縛優先」
せつながニヤリ。
「骨は折っても、命は折らないってやつねー」
「言い方ぁぁぁ!!」
私は走りながら、必死に書いた。
手が震える。
でも、目が離せない。
狂犬が吠え、戦が動いた。
赤塚の戦いは、もう止まらない。
桃の感想(祐筆)
戦場で三味線を鳴らして、兵を合唱させて突撃させる姫君を、私は知らない。
でも、見た。敵が割れて、道ができた。
……あれが“作戦”なのだろうか。
作戦名:狂犬。雑。最悪に強い。
桃の日記(狂犬記)
開戦の狼煙は、火ではなく、姫様の三味線だった。
歌って叫んで殴り込む織田家臣団。バーサーカー仕様。
本陣が空っぽになって信長様が取り残されるのは、普通に危険だと思う。
でも姫様が前にいると、皆、前に行ってしまう。
藤吉郎様とくのいち三人、全速前進。
山口親子が見えた。
次は――捕縛の瞬間を書く。生きて帰りたい。




