34話 赤塚の戦い その3 ――山口親子の謀反/流言飛語の効果!――
西暦一五五二年(天文二十一年)五月下旬 初夏 尾張・清州→赤塚 出陣当日 早朝
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
流言飛語とは、恐ろしい。
恐ろしいが――うちの姫様がやると、だいたい笑顔になる。
「ふふふ」
お市様、朝からニコニコ。
いや、ニコニコというか、獲物を見つけた狂犬の顔である。
「姫様、今日……出陣ですよね?」
私は筆を抱えたまま、恐る恐る確認する。
「うむ。退屈じゃ」
「退屈!?」
「勝ち戦は退屈じゃ」
「まだ戦ってないです!!」
隣で藤吉郎が、深紅の鎧の紐を締めながら、顔色を失っている。
髪はないが、今日も光沢は完璧。深紅に映える。最悪に目立つ。
「桃……」
「なに」
「僕、ほんとにこれ着ていいの?」
「姫様に聞け」
「姫様、これ……紅備っていうか、目立つっていうか、敵に“刺してください”って言ってるような――」
「言っておる」お市様が即答した。
「言ってるんかい!」(藤吉郎)
くのいち三人組も深紅。
さくらは嬉しそうに腕をぶんぶん回している。
「深紅、かわいい!あたし、今日“赤い流星”って呼ばれますね!」
「呼ばれねえよ」(あやめ)
「呼ばれるよ!」(せつな)
「あんたが呼ぶな」(あやめ)
「じゃ、私が呼ぶ!」(せつな)
「おやめください」(あやめ)
「真面目すぎて、あやめの顔が刀みたい!」(さくら)
「刀のほうがまだ柔らかいです」(あやめ)
「こわっ!」(藤吉郎)
寧々とまつは、最後の見送り支度。
寧々は落ち着いているふりをして、指先が小さく震えている。
まつは逆に、落ち着きがない。
「藤吉郎、死なんといてな!」(まつ)
「不殺だから死なないはず……!」
「“はず”言うな!」(寧々)
「寧々、怖い!」
「怖いに決まってるやろ!……でも、考えて動きぃ」
「うん……」
藤吉郎、珍しく真顔で頷いた。
お市様は、三味線を背中に背負い、いつもの深紅の鎧。
そして、凶悪なガントレットを両手に装着。
そのまま――
「ふぁ〜〜……」
大欠伸。
「姫様、あくび!?」(桃)
「眠い」
「戦です!」
「走れば目が覚める」
「走るのは兵です!」
「わらわも走る」
「それが一番怖い!!」
◆流言飛語の効果(尾張・美濃)
出陣前に、情報が次々と入ってくる。
――美濃では、城の中で疑心暗鬼。
「六角に買われた」「いやお前が買われた」
噂が噂を呼び、夜番が互いの顔を見張る。
厩の草まで疑われる勢いらしい。意味がわからない。
――尾張では、山口親子の周辺がざわついている。
「美濃が裏で糸引いとる」「六角の使いが来た」
「いや、斎藤が先に裏切る」
誰も確かめていないのに、確信だけが増えていく。
そして、極めつけ。
「姫様!山口方の足軽が、昨夜のうちに数十……寝返りたいと!」
使いの者が叫ぶ。
お市様はにっこり。
「ほう。早いの」
「早いの、じゃない!」(桃)
「姫様、ほんとに効いてます……噂」(藤吉郎)
「当然じゃ」
「当然って!」
「銭と恐れは、よく走る」
「走らせたの姫様です!」
「うむ。わらわは走るのが好きじゃ」
「走るのは兵です!」(桃)
さくらが目を丸くする。
「噂って、矢より速いんだ……」
あやめが静かに頷く。
「矢は防げます。疑いは防げません」
せつながニヤニヤ。
「疑いは“自分で育つ”からね」
「あなた、笑うところじゃない」(あやめ)
「え〜?褒め言葉?」
「褒めてません」
寧々が、小さく息を吐いた。
「姫様、ほんまに……戦の前に勝ち筋つくるんやな」
まつが腕を組む。
「そら、姫様やし。勝ってからライブするんや」
「順番が逆や!」(桃)
「逆でも勝つのが姫様」
「胃が痛い」(桃)
◆織田家臣団、出陣
そして出陣当日。
織田家臣団、兵力八百。
信長様(本陣)
信行様(本陣)(お市様のライブでメンタル故障中)
丹羽長秀(本陣/兵站)
柴田権六勝家(先鋒)
平手正秀(左翼)
佐久間信盛(右翼)
林秀貞(先鋒二段目)
清州城下を抜けると、初夏の田の匂いがした。
尾張の土は、湿り気があって、妙に落ち着く。
……落ち着かないけど。
本陣のほうでは、信長様が馬上から声を飛ばす。
「――山口親子、討つ!」
兵が「おお!」と応える。
その横で信行様が、ぽつり。
「……草、抜きたい」
私は聞かなかったことにした。
丹羽殿が、胃を押さえている。
柴田様(権六)は、変装を諦めたような顔で先鋒に立っている。デカい。
そして――異物。
豊臣号に乗り、深紅の鎧の狂犬が前進している。
背中に三味線。両手に凶悪ガントレット。
顔は世界一の美人。
態度は退屈。
「ふぁ〜……まだ着かんの?」
「姫様、今、出たばかりです!」(桃)
「歩くのだるい」
「馬です!」(桃)
「馬でもだるい」
「じゃあ戦やめてください!」(桃)
「やめぬ」
「なんで!」
「噛みつくのが仕事じゃ」
「狂犬かよ!」
「狂犬じゃ」
「認めるな!」
藤吉郎が横で、必死に隊列を整えている。
深紅の紅備の四人が並ぶと、目が痛いほど派手だ。
「藤吉郎……敵、僕ら見た瞬間、逃げるんじゃない?」(せつな)
「逃げたら勝ちだけど、逃げなかったら……僕らが死ぬ!」
「不殺です!」(さくら)
「不殺でも骨折るから!」(藤吉郎)
「骨折はセーフ」
「セーフじゃない!」
「セーフです」(あやめ真顔)
「どっちの味方!?」(藤吉郎)
寧々とまつは今回は後方だ。
でも、見送りの最後に、寧々が藤吉郎へ投げた言葉が、まだ耳に残っている。
「……帰ってきぃ。絶対やで」
あの声、強いのに、少しだけ泣きそうだった。
藤吉郎は、だから余計に、必死な顔をしていた。
“姫様の雑”を知恵に変えて、帰るために。
◆戦場へ、退屈そうに
赤塚へ向かう道。
空は青い。風はぬるい。
鳥が鳴く。
戦とは思えぬほど平和――なのに、兵の背中は固い。
お市様は、豊臣号の上で、また欠伸。
「姫様、せめて緊張してください!」(桃)
「緊張は胃に悪い」
「誰の胃が基準なんですか!」
「尾張の胃じゃ」
「尾張の胃って何!?」
お市様は、前を見ながら、楽しそうに言った。
「なあ藤吉郎」
「は、はい」
「流言飛語、効いたの?」
「効きました……敵の陣、疑いでぐちゃぐちゃです」
「ふふふ。よい」
「姫様、その笑い方、悪代官です」
「褒め言葉じゃ」
「褒めてません!」
さくらが拳を握る。
「初陣……怖いけど、やります!」
あやめが静かに息を整える。
「恐怖は視野を狭めます。見るべきは“足”です。姫様の指示どおり」
せつなが肩を鳴らす。
「足狙って、派手に転ばせる。……あたし、得意!」
「得意言うな!」(藤吉郎)
私は筆を握りしめ、腹の底を押さえた。
胃は痛い。だが、目は離せない。
尾張は今、戦の匂いがする。
そして狂犬は――
退屈そうに、前へ進んでいた。
◉桃の感想(祐筆)
流言飛語は、矢より速い。
敵の足を折る前に、心の足を折る。
姫様は笑っている。怖いほど楽しそうだ。
藤吉郎は必死だ。さくらは前向きだ。あやめは冷静だ。せつなは場を回す。
四人が一つの刃になり始めている。
赤塚が近い。胃が痛い。
◉桃の日記(狂犬記)
出陣の日は、空が青いほど怖い。
姫様は欠伸をしていた。人としての規格が違う。
噂が効いた。寝返りが出た。敵は疑いで崩れ始めた。
戦は始まる前から、もう始まっている。
藤吉郎が、寧々の言葉を思い出している顔をしていた。
帰ってきてほしい。全員で。
……でも姫様がいる。
勝つ気しかしない。怖い。




