第341話 雷神、豊後に帰る――忠義と困惑のあいだで
西暦1556年4月26日(弘治二年・卯月下旬)
豊後国・府内 大友館
豊後府内の朝は、海風よりも先に噂が着く。
赤間関から船を飛ばし、豊後の浜へ上がった戸次鑑連と由布惟信は、館へ向かう道すがら、町の空気がどこか重いのを感じていた。
人はいる。荷も動いている。だが、下関や門司で見たような、腹の底から湧く活気とは違う。
誰もが、主君の顔色をうかがっている町の空気だった。
鑑連は、日焼けした顔のまま黙って歩いていた。
湯治と称して敵地に長逗留し、粉瘤の手術まで受け、診療所で咳止めをもらい、甘味を食べ、町を見て回り、港を見、商館を見、働く民の顔まで見てきた。
見たくないものまで、ずいぶん見た。
「殿」
由布が小声で呼ぶ。
「まず、三老ですな」
「ああ。宗麟様の前に、現実を知る者へ話す」
それが正しい順番だった。
今の豊後府内で、現実を真正面から受け止められるのは、まず老いた重臣たちだ。
館に入り、通されたのは奥の小広間だった。
呼ばれたのは、豊後三老――臼杵鑑速、吉弘鑑理、そして“大友の爺”と陰で呼ばれる吉岡長増。
さらに、軍配者の角隈石宗も座に加わった。
戸が閉まる。
静かだ。
静かだが、全員がただならぬ話だと察している。
最初に口を開いたのは、吉岡長増だった。
「……で、鎮西無双殿。湯治の旅は、えらい長かったの」
言葉は柔らかいが、探る目をしている。
鑑連は、座に着いたまま頭を下げた。
「申し開きはございませぬ。されど、見ておくべきものを、見てまいりました」
臼杵鑑速が、腕を組む。
「狂犬、か」
その一言に、部屋の空気が少しだけ張る。
誰も軽く笑わない。
もはや“噂の怪物”では済まぬ段階に来ているからだ。
鑑連は、順を追って話し始めた。
「まず――狂犬お市に会いました。
病を見抜かれ、背の粉瘤を切られました」
吉弘鑑理が思わず眉を上げる。
「は? おぬしが? 手術を?」
「はい」
「敵地で?」
「はい」
「よう生きて帰ってきたの」
吉岡長増が呟くと、由布が小さく肩をすくめた。
「それが、殺されぬのです。
監視はされました。北条の風魔にも見られておりました。
しかし、手は出されませなんだ」
角隈石宗が顎に手をやる。
「見せた、のだな」
鑑連が頷く。
「はい。見せつけておる。
“我らは見ている。だが、無暗に殺さぬ”と」
それは、武よりも性質が悪い。
部屋の全員が、それを理解した。
鑑連は、さらに続ける。
「軍神長尾景虎は、狂犬の義理姉妹として、あの地におります。
実際に見ました。火縄銃隊と新兵器を訓練し、兵を鍛え、水陸両用の襲撃訓練までしております。
北条の風魔、武田の赤備え、雑賀、根来、前田、松平……あの地には、ただの寄り合いではない“連合の中枢”が出来つつあります」
臼杵鑑速が低く唸った。
「毛利を叩いた勢いだけでは、ないか」
「ありません」
鑑連ははっきり答えた。
「豊前、筑前北部は急速に調略で広がっております。
税が、水田一割、畑無料に寄せられました。
それを見た近隣の国人は、真似せねば民が逃げます。真似できぬ者は、民を失い、領地が痩せます」
吉弘鑑理が目を細める。
「民が逃げる先は」
「下関、門司、洞海湾」
由布が引き取った。
「今、あそこは商館町であり、工業町です。
堺商人や連合商人が港町の土地を買い、蔵を建て、商館を出し、投資を始めています。
町が町を呼び、銭が銭を呼んでいます」
角隈石宗が小さく息を吐く。
「戦より厄介だな」
「はい」
鑑連の返事は重かった。
「武だけならば、まだ対策はあります。
だが、あれは武に加えて、経済力が半端ではない」
その一言が、深く落ちる。
経済。
それは、武士が昔から目を逸らしがちなものだ。
だが、目を逸らした者から干上がる。
鑑連は、さらに具体を話した。
「胡散臭い南蛮商人――デマ・ボロ・モーケと名乗る者が、彦島へ出入りしております。
狂犬はその男と平然と話し合い、地面も港も白く固めておりました。
石灰と石炭、鉄、港、寺小屋、無料診療所、雇い口、仕様書。
何もかもが、兵站と統治と商いに繋がっております」
吉岡長増が、深く目を閉じた。
「……嫌な報告ばかりじゃの」
「嫌ですが、現実です」
鑑連は即答した。
「戦を仕掛ければ、大友は連合を敵に回します。
武田、北条、長尾、織田、狂犬。
加えて――毛利も、連合へ入ろうとしております」
その場の全員が、わずかに動いた。
「毛利が?」
「はい。小早川隆景が頭を下げに行き、仕様書と土産を持ち帰っております。
牡蠣の養殖の書付まで渡されておりました」
吉弘鑑理が目を瞬かせる。
「牡蠣……?」
由布が、疲れたように言う。
「戦の会談の土産が牡蠣です。
しかし、笑えませぬ。あれは“次の収入”の話です」
臼杵鑑速が、拳を握った。
「……やり口が細かい」
「細かいどころではありませぬ」
鑑連は、そこで初めて少しだけ声を荒くした。
「したたかです。強い武力も脅威ですが、それ以上に“人を生かす形で支配する”のが恐ろしい。
下関には浪人も、逃げてきた農民も、仕事を与えられ、町に溶かされておりました。
あの地では、戦の敗者さえ、資源になる」
部屋が、また静まる。
そして鑑連は、いちばん言いにくいことを口にした。
「……宗麟様と、狂犬お市を比べると」
その先を、誰も急かさなかった。
急かせば、自分が傷つくと分かっていたからだ。
鑑連は、目を伏せずに言った。
「大友に忠誠心はあります。
だが、宗麟様には……どうしたらよいか、分からなくなる時があります」
その言葉は、部屋の空気を凍らせた。
由布が、静かに続けた。
「狂犬は、恐ろしい。
だが、あれは“何をしたいか”が分かる。
民を売らぬ国を作り、法と商いで戦を終わらせる。
それが気味が悪いほど、はっきりしておりました」
吉岡長増が、長く息を吐いた。
「……つまり、殿は忠義に迷っておるのではない」
「はい」
鑑連ははっきり言った。
「私は大友の家臣です。
それは変わりませぬ。
されど、主君に何を諫め、何を止め、何を急がせるべきか――それが、分からなくなるのです。
狂犬を見た後では、なおさら」
角隈石宗が低く言う。
「ならば、答えは一つだ。
諫めよ。止めよ。急がせよ。
分からぬなら、分かるまで言え」
吉弘鑑理も頷く。
「宗麟様に耳の痛い話をする役目は、誰かが負わねばならぬ。
そのための三老であり、そのための鎮西無双よ」
臼杵鑑速が、鑑連をまっすぐ見た。
「おぬしは、狂犬に感心して戻ったのではない。
大友を守るために、見て戻った。そうだな」
鑑連は、深く頭を下げた。
「……はい」
その返事だけは、迷いがなかった。
小広間の外では、府内の風が静かに鳴っていた。
戦の音ではない。
だが、その静けさの裏で、国の行く先が少しずつ傾いているのを、誰もが感じていた。
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月二十六日ごろ)
今日は、豊後へ戻った戸次鑑連殿と由布惟信殿の話が伝わってきた。
二人は豊後府内で、豊後三老と軍配者に先に会い、狂犬お市様の領地を見てきたことを報告したらしい。
病を手術されたこと。
軍神景虎姉上が義理姉妹として軍事訓練をしていたこと。
北条の風魔に監視されても手を出されなかったこと。
税が水田一割、畑無料へ寄せられ、下関から洞海湾まで商館町・工業町になっていること。
堺商人や連合商人が土地を買い、南蛮商人まで出入りしていること。
そして、毛利までも連合へ入ろうとしていること。
報告の最後で、鑑連殿は「大友に忠誠心はあるが、宗麟様にはどうしたらよいか分からなくなる」と言ったそうだ。
この言葉は重い。忠義がないのではなく、忠義の向け方が分からなくなるのだ。
お市様の恐ろしさは、そこにあるのだと思う。強いだけではなく、“何をしたいか”が見える。見えてしまう。
見えた後で、自分の主君を見るのは、きっとつらい。




