表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

343/344

第341話 雷神、豊後に帰る――忠義と困惑のあいだで

西暦1556年4月26日(弘治二年・卯月下旬)

豊後国・府内 大友館

豊後府内の朝は、海風よりも先に噂が着く。

赤間関から船を飛ばし、豊後の浜へ上がった戸次鑑連と由布惟信は、館へ向かう道すがら、町の空気がどこか重いのを感じていた。

人はいる。荷も動いている。だが、下関や門司で見たような、腹の底から湧く活気とは違う。

誰もが、主君の顔色をうかがっている町の空気だった。

鑑連は、日焼けした顔のまま黙って歩いていた。

湯治と称して敵地に長逗留し、粉瘤の手術まで受け、診療所で咳止めをもらい、甘味を食べ、町を見て回り、港を見、商館を見、働く民の顔まで見てきた。

見たくないものまで、ずいぶん見た。

「殿」

由布が小声で呼ぶ。

「まず、三老ですな」

「ああ。宗麟様の前に、現実を知る者へ話す」

それが正しい順番だった。

今の豊後府内で、現実を真正面から受け止められるのは、まず老いた重臣たちだ。

館に入り、通されたのは奥の小広間だった。

呼ばれたのは、豊後三老――臼杵鑑速、吉弘鑑理、そして“大友の爺”と陰で呼ばれる吉岡長増。

さらに、軍配者の角隈石宗も座に加わった。

戸が閉まる。

静かだ。

静かだが、全員がただならぬ話だと察している。

最初に口を開いたのは、吉岡長増だった。

「……で、鎮西無双殿。湯治の旅は、えらい長かったの」

言葉は柔らかいが、探る目をしている。

鑑連は、座に着いたまま頭を下げた。

「申し開きはございませぬ。されど、見ておくべきものを、見てまいりました」

臼杵鑑速が、腕を組む。

「狂犬、か」

その一言に、部屋の空気が少しだけ張る。

誰も軽く笑わない。

もはや“噂の怪物”では済まぬ段階に来ているからだ。

鑑連は、順を追って話し始めた。

「まず――狂犬お市に会いました。

病を見抜かれ、背の粉瘤を切られました」

吉弘鑑理が思わず眉を上げる。

「は? おぬしが? 手術を?」

「はい」

「敵地で?」

「はい」

「よう生きて帰ってきたの」

吉岡長増が呟くと、由布が小さく肩をすくめた。

「それが、殺されぬのです。

監視はされました。北条の風魔にも見られておりました。

しかし、手は出されませなんだ」

角隈石宗が顎に手をやる。

「見せた、のだな」

鑑連が頷く。

「はい。見せつけておる。

“我らは見ている。だが、無暗に殺さぬ”と」

それは、武よりも性質が悪い。

部屋の全員が、それを理解した。

鑑連は、さらに続ける。

「軍神長尾景虎は、狂犬の義理姉妹として、あの地におります。

実際に見ました。火縄銃隊と新兵器を訓練し、兵を鍛え、水陸両用の襲撃訓練までしております。

北条の風魔、武田の赤備え、雑賀、根来、前田、松平……あの地には、ただの寄り合いではない“連合の中枢”が出来つつあります」

臼杵鑑速が低く唸った。

「毛利を叩いた勢いだけでは、ないか」

「ありません」

鑑連ははっきり答えた。

「豊前、筑前北部は急速に調略で広がっております。

税が、水田一割、畑無料に寄せられました。

それを見た近隣の国人は、真似せねば民が逃げます。真似できぬ者は、民を失い、領地が痩せます」

吉弘鑑理が目を細める。

「民が逃げる先は」

「下関、門司、洞海湾」

由布が引き取った。

「今、あそこは商館町であり、工業町です。

堺商人や連合商人が港町の土地を買い、蔵を建て、商館を出し、投資を始めています。

町が町を呼び、銭が銭を呼んでいます」

角隈石宗が小さく息を吐く。

「戦より厄介だな」

「はい」

鑑連の返事は重かった。

「武だけならば、まだ対策はあります。

だが、あれは武に加えて、経済力が半端ではない」

その一言が、深く落ちる。

経済。

それは、武士が昔から目を逸らしがちなものだ。

だが、目を逸らした者から干上がる。

鑑連は、さらに具体を話した。

「胡散臭い南蛮商人――デマ・ボロ・モーケと名乗る者が、彦島へ出入りしております。

狂犬はその男と平然と話し合い、地面も港も白く固めておりました。

石灰と石炭、鉄、港、寺小屋、無料診療所、雇い口、仕様書。

何もかもが、兵站と統治と商いに繋がっております」

吉岡長増が、深く目を閉じた。

「……嫌な報告ばかりじゃの」

「嫌ですが、現実です」

鑑連は即答した。

「戦を仕掛ければ、大友は連合を敵に回します。

武田、北条、長尾、織田、狂犬。

加えて――毛利も、連合へ入ろうとしております」

その場の全員が、わずかに動いた。

「毛利が?」

「はい。小早川隆景が頭を下げに行き、仕様書と土産を持ち帰っております。

牡蠣の養殖の書付まで渡されておりました」

吉弘鑑理が目を瞬かせる。

「牡蠣……?」

由布が、疲れたように言う。

「戦の会談の土産が牡蠣です。

しかし、笑えませぬ。あれは“次の収入”の話です」

臼杵鑑速が、拳を握った。

「……やり口が細かい」

「細かいどころではありませぬ」

鑑連は、そこで初めて少しだけ声を荒くした。

「したたかです。強い武力も脅威ですが、それ以上に“人を生かす形で支配する”のが恐ろしい。

下関には浪人も、逃げてきた農民も、仕事を与えられ、町に溶かされておりました。

あの地では、戦の敗者さえ、資源になる」

部屋が、また静まる。

そして鑑連は、いちばん言いにくいことを口にした。

「……宗麟様と、狂犬お市を比べると」

その先を、誰も急かさなかった。

急かせば、自分が傷つくと分かっていたからだ。

鑑連は、目を伏せずに言った。

「大友に忠誠心はあります。

だが、宗麟様には……どうしたらよいか、分からなくなる時があります」

その言葉は、部屋の空気を凍らせた。

由布が、静かに続けた。

「狂犬は、恐ろしい。

だが、あれは“何をしたいか”が分かる。

民を売らぬ国を作り、法と商いで戦を終わらせる。

それが気味が悪いほど、はっきりしておりました」

吉岡長増が、長く息を吐いた。

「……つまり、殿は忠義に迷っておるのではない」

「はい」

鑑連ははっきり言った。

「私は大友の家臣です。

それは変わりませぬ。

されど、主君に何を諫め、何を止め、何を急がせるべきか――それが、分からなくなるのです。

狂犬を見た後では、なおさら」

角隈石宗が低く言う。

「ならば、答えは一つだ。

諫めよ。止めよ。急がせよ。

分からぬなら、分かるまで言え」

吉弘鑑理も頷く。

「宗麟様に耳の痛い話をする役目は、誰かが負わねばならぬ。

そのための三老であり、そのための鎮西無双よ」

臼杵鑑速が、鑑連をまっすぐ見た。

「おぬしは、狂犬に感心して戻ったのではない。

大友を守るために、見て戻った。そうだな」

鑑連は、深く頭を下げた。

「……はい」

その返事だけは、迷いがなかった。

小広間の外では、府内の風が静かに鳴っていた。

戦の音ではない。

だが、その静けさの裏で、国の行く先が少しずつ傾いているのを、誰もが感じていた。

祐筆桃の日記(弘治二年 卯月二十六日ごろ)

今日は、豊後へ戻った戸次鑑連殿と由布惟信殿の話が伝わってきた。

二人は豊後府内で、豊後三老と軍配者に先に会い、狂犬お市様の領地を見てきたことを報告したらしい。

病を手術されたこと。

軍神景虎姉上が義理姉妹として軍事訓練をしていたこと。

北条の風魔に監視されても手を出されなかったこと。

税が水田一割、畑無料へ寄せられ、下関から洞海湾まで商館町・工業町になっていること。

堺商人や連合商人が土地を買い、南蛮商人まで出入りしていること。

そして、毛利までも連合へ入ろうとしていること。

報告の最後で、鑑連殿は「大友に忠誠心はあるが、宗麟様にはどうしたらよいか分からなくなる」と言ったそうだ。

この言葉は重い。忠義がないのではなく、忠義の向け方が分からなくなるのだ。

お市様の恐ろしさは、そこにあるのだと思う。強いだけではなく、“何をしたいか”が見える。見えてしまう。

見えた後で、自分の主君を見るのは、きっとつらい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ