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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第340話 黒口紅の診療所――推し活は、ほどほどに

西暦1556年4月25日(弘治二年・卯月二十五日ごろ)

長門国・赤間関(下関) 彦島・狂犬堂無料診療所

壇之浦――あの海は、春の潮が強い。

潮が強い日は、昔から「魂が寄る」と下関の古老は言う。平家が散った日が近づくと、海に向かって手を合わせる者が増えるのも、この町の癖だ。

そして今日――その“供養”を、誰より派手に、誰より真剣にやったのが、狂犬お市様だった。

朝、津軽三味線を抱え、漆黒の狂犬織に黒帯。首には紅の首巻き。

口紅まで黒。

壇之浦の砂浜で、海に一礼し、歌って、弾いて、泣かせて、笑わせて――追悼ライブ。

町は今も余韻でふわふわしている。

だが、当の本人は診療所の鏡の前にいた。

「……うむ。気に入った」

白衣を羽織る前に、もう一度だけ鏡を見る。

黒口紅だけでは足りぬ、と姫様は思った。

「もう少し、目力がいるな」

桃が背後で気配を殺しつつ、心の中で合掌する。

(やめて。今日、診療所が壊れる……)

姫様は黒の細筆を取り、すっとアイラインを引く。

目尻が少しだけ上がる。まつげを整える。

結果――“美”が暴力になった。

「姫様……そのお姿で、診療所へ?」

「医者は見た目も大事じゃ。患者が安心する」

桃は即座に言い返す。

「安心じゃなくて、失神します」

姫様は何も気にせず、白衣を羽織って歩き出した。

黒装束に白衣。

“救う”と“狩る”が同居した格好である。

――そして案の定、診療所の前には列ができていた。

「姫様、今日も人気じゃの」

「人気の方向が、病んでますけどね」

桃が列を見て眉をひそめた。

咳をしている者もいる。腹を押さえる者もいる。

しかし、全体の空気が違う。

目が潤んでいる。胸を押さえている。

呼吸が浅い。

何かに撃ち抜かれた顔だ。

真理姫、瑠璃姫、徳姫が奥でカルテを整理していたが、三人とも手が止まっていた。

「……姫様、黒……」

「……ズキュン……」

「……狂犬病、悪化……」

桃が振り向いて怒鳴る。

「お前ら医者やろ!」

姫様は椅子に座り、涼しい顔で言った。

「次」

最初に来たのは、門司から来たという若い人足だった。

目がうるうるしている。

「どこが悪い」

「……胸が……」

「胸」

「朝の歌が……頭から離れんのです……」

姫様は一拍置いて、真顔で頷く。

「それは――恋じゃ」

人足が崩れ落ちそうになる。

「治りますか!」

「治る」

桃が身を乗り出す。

「姫様、ちゃんと治してくださいよ」

姫様はさらっと言った。

「働け」

「……はい?」

「忙しければ恋は暴れぬ。働けば腹が満ち、腹が満てば心も満つ」

人足はなぜか感動して、深々と頭を下げた。

「姫様、ありがたき……!」

桃が小声で呟く。

「雑な処方が効いてる……」

次の患者は魚屋の親父。

頬が赤い。

「姫様、胸が苦しいんですわ」

「鯛を食え」

「はい?」

「春の鯛は命を立て直す。恋の熱も、鯛で下がる」

「そんな薬あります!?」

「ない」

待合が笑いに包まれた。

姫様の診療は、薬より先に空気を治す。

だが、列の最後に見えた影を見て、桃は笑えなくなった。

「……あれ、権六殿?」

柴田権六勝家。

大柄で強面、眉間に皺。

その男が、列に並んでいる。

桃が目をこすってもう一度見る。

間違いない。権六だ。しかも順番を守っている。

「権六殿! どうされました!?」

権六は渋い顔で言った。

「……喉が痛い」

「それ、普通に風邪では……」

権六はぼそり。

「……朝の浜で、叫びすぎた」

桃が思い出してしまって吹き出した。

「合いの手、入れてましたもんね」

権六は目をそらす。

「……つい」

順番が回ってきた。

姫様は権六の喉を見て、脈を取り、胸の音を聞く。

診療所が静かになる。

権六ほどの武辺者でも、姫様の“美”の圧の前では妙におとなしい。

姫様は淡々と告げた。

「葛根湯。蜂蜜。あと、今日は声を出すな」

権六は真面目に頷いた。

「はっ」

そこで姫様は、ふっと表情を緩めた。

戦の場でしか見せないような、柔らかい目。

「権六」

「はっ」

姫様は手を差し出した。

白衣の袖口から伸びた指先は、意外なほど温かかった。

「わらわの推し活もよいが、身体をいたわれよ」

権六の目が泳ぐ。

「推し活……?」

桃が横で即ツッコミを入れる。

「権六殿、分からんでいいです。姫様の言葉は、だいたい勢いです」

姫様は気にせず続けた。

「いつもわらわの後詰め、すまぬな。感謝しとるぞ」

握手。

ぎゅっと、骨が鳴りそうなほどの握手ではない。

“礼”の握手だった。

その瞬間――

権六勝家の堤防が決壊した。

「わ、わしは……わしは……!」

目が潤む。

喉が痛いと言っていた男が、喉を震わせる。

「一生! 一生、姫様の後詰め、つかまつる……!」

泣いた。

本気で泣いた。

待合にいた人足や商人が、ぽかんと口を開ける。

真理姫が小声で呟く。

「……権六殿まで、ズキュン……」

瑠璃姫が頷く。

「……感染拡大……」

徳姫が真顔で言った。

「……狂犬病、重症……」

桃が机を叩く。

「だから病名にするな!」

姫様は権六の手を離し、背中を軽く叩いた。

「泣くな。喉が悪化する」

権六は涙を拭きながら、必死に頷いた。

「はっ……!」

姫様は淡々と次の患者を呼ぶ。

「次」

診療所の列は減らない。

だが、誰も文句を言わない。

姫様の黒口紅と、朝の歌と、そして一言の“礼”が――人の心を並ばせていた。

戦国は血で並ぶ。

だが、この町は今日、別のもので並んでいる。

“生きたい”と、思える熱で。

祐筆桃の日記

弘治二年 卯月二十五日(西暦1556年4月25日)

朝の壇之浦の追悼ライブ以来、姫様は黒口紅と黒化粧に目覚められ、さらに黒のアイラインで目力を増して診療所に来られた。黒装束に白衣という、見た者の寿命が縮む格好である。

結果、診療所の前に列ができた。咳の者もいるが、胸を押さえて目が潤んでいる者が多い。病ではなく、心が撃ち抜かれている。姫様はそれを「恋」と断じ、働けだの鯛を食えだの、相変わらず勢いで処方したが、なぜか皆が元気になる。姫様の診療は薬より先に空気を治す。

今日いちばん驚いたのは柴田権六殿が列に並んでいたことだ。喉が痛いと言っていたが、朝の浜で合いの手を入れて叫びすぎたのが原因らしい。姫様が「推し活もよいが身体をいたわれ」と言い、いつも後詰めをしてくれる礼として握手をされた。

権六殿はその場で泣いて「一生後詰めつかまつる」と誓った。

強い武士ほど、姫様の“礼”に弱い。私も気をつけねばならぬ。姫様は狂犬だが、狂犬の牙は、民と家臣を生かす方向にしか向かない。そこが、恐ろしい。

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