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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第339話 黒口紅、壇ノ浦――追悼はライブでやるものじゃ

西暦1556年4月25日(弘治二年・卯月二十五日ごろ)

長門国・赤間関(下関)/壇之浦古戦場前

春の朝は、油断すると心がほどける。

下関の町は、甘味通りに湯気が立ち、魚屋の声が跳ね、堺通りの商人が値を探って、いつも通りに賑やかだった。

――いつも通り、のはずだった。

上げ下げつり橋の向こうから、黒が来た。

漆黒の狂犬織、黒の帯。首には紅の首巻き。フルメイクで、口紅まで黒。腰まである艶やかな黒髪を、馬の尻尾みたいに高く縛っている。

そして手には、津軽三味線。

つかつか、つかつか。

姫様は橋を渡りながら、弦を鳴らした。

「あーーーあーああーあー」

「おーーーおーおおーおー」

声が、朝市の喧騒を一刀で切った。

呼び込みが止まり、丁稚が立ち尽くし、子どもが口を開けたまま振り返る。

「……は? 朝から、なにしてはるん……」

桃が呟いた瞬間、身体が勝手に動いた。嫌な予感がする。これは確実に“巻き込まれる日”だ。

「姫様っ! どちらへ――!」

追いかけると、真理姫が自分の三味線を抱えて走ってきた。瑠璃姫と徳姫も白衣の袖をたくし上げて続く。町の人々も、子どもも、商人も、浪人も、同心も、なぜか列になってついてくる。

「桃さん! 姫様、今日は演目が決まってる顔だよ!」と真理姫。

「顔で分かるんかい!」と桃が返す。

瑠璃姫が肩で息をしながら、「徳、ついて来るのはいいけど、迷子になったら診療所の評判落ちるからね!」

徳姫が真面目にうなずく。「うん、でも……姫様、黒口紅、似合いすぎて怖い……」

「そこ褒めるとこちゃう!」

姫様は振り返らず、町の碁盤目の通りを抜け、海へ向かった。

壇之浦古戦場前の浜へ出たところで、足を止める。

潮の匂いが濃い。

ここは、平家が沈んだ場所だ。源氏が勝ち、国が変わった場所だ。下関の人間は、笑って生きるほど、同時に“海に礼をする日”を忘れない。

姫様は海へ一礼した。深く、短く。

それから三味線を抱え直し、弦を鳴らす。

「尾張ジョンガラ節、いくぞ」

「尾張なんですか!」と桃が思わず突っ込むと、姫様は平然と、黒口紅のまま言った。

「わらわの心は尾張にも津軽にもある。海は繋がっておる。――今日は壇之浦合戦の日じゃ。散った者への供養じゃ。追悼ライブ、始めるぞ」

追悼。らいぶ。

言葉の意味は分からない。だが、浜の空気が変わったのは分かった。

一曲目は「貴女といた春」。

姫様の声は、春の匂いを連れてきた。

“早く会いたい”と、まっすぐな願いが波より先に胸へ届く。笑顔を思い出す歌なのに、なぜか泣ける。若い女が袖で目元を押さえ、年寄りが数珠を握る。戦国の春は、会えないまま終わることが多すぎるからだ。

二曲目は「平家純恋歌」。

今度は、痛みが刃になる。

“俺が何をした”という叫びが、浜の砂を掻くみたいに響いた。助けた命が恨みになる理不尽。救った相手の身内にすら憎まれる戦の因果。

道雪や雪下みたいな武士が、ここにいたら顔をしかめたかもしれない。けれど、顔をしかめるしかない現実が、戦国にはある。

三曲目は「戦国無双」。

空気が一気に熱くなる。

“幾百幾千の兵をけちらし”というフレーズに、若い武士が喉を鳴らし、子どもが目を輝かせる。

紅の槍――前田の名が脳裏をよぎった者もいただろう。姫様の歌は、ただの追悼じゃない。死を悼みながら、生きる側の背筋を起こしてくる。

真理姫が耐えきれず、そっと三味線で合わせた。

姫様はちらりとだけ横目をやり、口元を少しだけ上げた。

「よい。続けよ。供養は一人でやるものではない」

その瞬間、浜が“町”になった。

泣く者、歌に合わせて口を動かす者、姫様に憧れて背伸びする子ども。

そして――堺商人。

「黒の狂犬織に、黒口紅……ええなぁ。これ、売れるで」

「供養の最中に商機見つけるな!」と誰かが怒ると、堺訛りが軽く笑った。

「商いは生きる道や。生きる道が増えたら、売られん子も増える。知らんけど」

「最後に“知らんけど”言うな!」

怒りと笑いが同時に起きた。

その“笑い”を、姫様は最初から計算していた気がする。悲しみを固めるだけでは、人は次の日に働けない。働けなければ、家は潰れる。家が潰れれば、子は売られる。姫様はそれを嫌う。だから追悼を“人が集まる形”にして、町の腹を満たす匂いまで連れてくる。

歌い終えると、姫様はもう一度、海へ礼をした。

「泣いた者は泣いてよい。笑うた者は笑ってよい。海は、どっちも流してくれる」

黒口紅のまま、声だけが優しい。

浜の風が、誰かの涙を乾かした。

そして姫様は、何事もなかったように立ち上がり、言い放った。

「帰るぞ。今日の昼までに、石灰の粉の帳面も見ねばならぬ。供養も仕事も両方じゃ」

藤吉郎が頭を抱えた。

「姫様! 追悼ライブの直後に帳面て……!」

「うるさい。供養で腹は満ちぬ。銭と米で民は生きる。以上!」

こうして、壇之浦の朝は終わった。

浜に残ったのは、潮の匂いと、胸の奥の熱と、黒口紅の衝撃だけ。

姫様は今日も“狂犬”だった。

けれど、狂い方がいつも同じ方向――人を生かす方向――だから、誰もが結局、ついていってしまう。

祐筆桃の日記(弘治二年 卯月二十五日/西暦1556年4月25日)

朝、姫様が黒装束に黒口紅で津軽三味線を持ち、歌いながら橋を渡られた。町が止まり、私も真理姫も瑠璃姫も徳姫も、そして町の人々も、気づけば列になって後を追っていた。

姫様は壇之浦の浜で海に礼をし、「壇之浦合戦の日ゆえ供養」と言い、追悼の歌を三つ歌われた。春の歌、理不尽の歌、戦の歌。泣く者も笑う者も同じ浜にいた。

供養の最中に堺商人が黒装束の商機を見て騒いだのは腹が立ったが、笑いが起きて、泣きっぱなしにならなかった。姫様は最初から、悲しみをほどくために笑いも混ぜたのだと思う。

最後に姫様は「供養も仕事も両方」と言って帳面に戻られた。あの人は感情すら国を動かす道具にしてしまう。恐ろしい。だが、民が売られぬ国に近づくなら、私はその恐ろしさに付いていく。

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