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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第338話 宗像、再起の潮路

西暦1556年4月20日(弘治二年・卯月二十日ごろ)

長門国・彦島 狂犬堂商館(彦島城)

春の潮は、まだ冷たい。

けれど彦島の空気は、どこか軽かった。福浦港から大船団が抜けた後も、商館の裏では鍛錬の声が途切れず、表では荷車が途切れず、診療所には白衣の影が忙しく行き来している。

その中心にいる狂犬お市様――今日も白衣ではない。

紫の狂犬織を羽織り、いつものように「丸投げ」の準備だけは完璧な顔で、評定の間に座っていた。

「……入りなさい」

声が落ちると、戸が静かに開く。

入ってきたのは、服部半蔵と服部せつな。

その間に、控えめに頭を下げる若い姫が一人――宗像菊姫だった。

菊姫は、まだ痩せている。

けれど血色は戻り、瞳に芯がある。傷は残っても、折れてはいない目だった。

「宗像菊姫にございます……このたびは、命を……そして居場所を……」

言葉が途中で震え、菊姫はもう一度深く頭を下げた。

「……救うていただき、かたじけのうございます」

半蔵は黙って見守り、せつなは落ち着かぬ様子で拳を握っている。

その“落ち着かなさ”が、むしろ必死さで、誠実だった。

お市様は、ふっと笑って、まずは菊姫ではなく――せつなに視線を向けた。

「せつな。ようやった」

「はっ!」

せつなの背筋が跳ね上がる。

お市様はそのまま、さくらとあやめの名も口にした。

「さくらも、あやめも、よう働いた。半蔵もな。――恩は、口で返すな。次の役目で返せ」

半蔵が小さく頭を下げる。

「御意」

褒め言葉の温度は低い。けれど、功績の重さだけはきっちり乗っている。

せつなは嬉しさを隠しきれず、口元が緩みかけ――すぐに自分で引き締めた。

菊姫は、そのやり取りを見て、少しだけ肩の力が抜けた。

この場は、泣いて許される場ではない。働いて立つ場だと理解したのだろう。

お市様は、菊姫の方へ向き直る。

「菊姫。安心して宗像を再興せよ」

菊姫は息を呑んだ。

「……ですが、今の宗像は……」

お市様は手をひらりと振る。

“不安”を切り捨てる動きだ。

「衝突は要らぬ。今の宗像とは、しばらく噛み合わぬようにせよ。

一からやり直せばよい。――まずは、彦島商館の中から始めろ」

菊姫は目を上げた。

宗像へ戻れ、ではない。ここで“再興の母体”を作れ、と言われたのだ。

「カラベルを一隻、くれてやる」

「……えっ」

せつなが思わず声を漏らし、半蔵が横目で叱る。

菊姫は固まったまま、言葉を失った。

お市様は当然のように続ける。

「宗像水軍は、潰れておらぬ。“形”が消えただけじゃ。形は作り直せる。

ただし――宗像を思う古い者もおろうが、今は要らぬ。新参で固めよ。心が揺れると足元が腐る」

菊姫は唇を噛み、頷いた。

痛いが、正しい。そういう頷きだ。

「暫くは九鬼水軍に助けてもらう。

洞海湾から、朝鮮。洞海湾から、出雲。洞海湾から、沿海州。――鉄の交易を任せる」

菊姫の表情が変わる。

ただの“保護”ではない。任務だ。交易だ。海の再起だ。

「……私に、務まりますでしょうか」

菊姫の声は小さい。

だが逃げる声ではない。背負う前提の問いだ。

お市様は、面倒くさそうに、しかし優しく言った。

「務まるようにする。細部は藤吉郎に聞け。仕様書もある。読み込め。使いこなせ。

資金は心配するな。狂犬堂から輸出するものは幾らでもある。――“売る物”があれば、水軍は立つ」

その言い方は、商いの理屈であり、軍の理屈でもあった。

そして、お市様は少しだけ声を落とす。

「沿海州には、薬を売れ」

菊姫が瞬きをする。

「薬……?」

「そうじゃ。向こうは寒い。怪我も病も多い。薬は銭になる。命も繋ぐ。

今年から長門の畑で生薬の生産を始める。起動に乗るのは一年――そこまで繋げ。

海は速い。だが“薬の道”は、もっと速い」

菊姫は、胸が熱くなるのを抑えきれなかった。

宗像は、ただ“守られる”のではない。働いて立つ。海で立つ。

「……かたじけのうございます。必ず……宗像を、立て直します」

深く頭を下げる菊姫に、お市様は頷き、最後にとどめのように言う。

「菊姫。お前が宗像を再興するのは、“誰かのため”だけではない。

民が売られぬためだ。子が泣かぬためだ。――海を使って、守れ」

せつなが、思わず言った。

「菊姫様……いや、菊姫殿。うち……俺も、手伝う!」

半蔵が低い声で釘を刺す。

「せつな。口より先に動け」

「はいっ!」

場が少しだけ和む。

お市様はそれを見て、口元だけ笑った。

「よい。では、今日から宗像は“再起”じゃ。

泣くな。働け。――海は、働く者に味方する」

春の潮が、窓の向こうで鳴った。

宗像の再興は、ここ彦島から始まる。

祐筆桃の日記(弘治二年 卯月二十日/西暦1556年4月20日)

今日は、宗像菊姫さまが彦島商館へ正式に挨拶に来た。

半蔵どのと、せつなも一緒。菊姫さまは痩せておられたが、目が強かった。生きる目だった。

お市様は、まず忍びの功績を淡々と褒めた。

「恩は口で返すな、次の役目で返せ」――いつもの姫様の言い方だ。冷たいようで、筋が通っている。

菊姫さまには、宗像再興を命じた。

衝突は避け、まず彦島商館の中で新参者だけで固めて始めよ、と。

そしてカラベル一隻を与えると言った。私は内心「それ、軽く言う量じゃない」と思った。だが姫様にとっては、未来への投資なのだろう。

任務は大きい。洞海湾から朝鮮・出雲・沿海州への鉄交易。

さらに沿海州へは薬を売れ、と。長門で生薬を作り、起動に乗るまで一年、そこまで繋げ、と言った。

戦の勝ち負けだけではなく、道を作って国を立たせる――姫様のやり方はやはり恐ろしい。

菊姫さまは泣かなかった。深く礼をして「必ず立て直す」と言った。

海は速い。けれど今日、もっと速い“決意”を見た気がする。

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