第337話 潮目の向こうで出世一番
西暦1556年4月19日(弘治二年・卯月十九日ごろ)
長門国・彦島 福浦港―関門海峡―瀬戸内へ
キャラックが福浦港を離れると、風は一段まじめになった。
港の喧騒が遠ざかり、かわりに潮の音だけが残る。関門海峡の潮は速い。船腹を叩く水の音が、鼓動のように規則正しい。
松平元康は甲板の縁に立ち、黙って海を見ていた。
背中には、四ヶ月分の土と汗と――理不尽が、まだ乾かずに貼り付いている。
「……殿」
酒井忠次が、元康の隣へ来た。
顔はいつも通りだ。泣き顔を見せる男ではない。だが、目の奥が少しだけ柔らかい。
元康は、海峡の向こう――彦島の白い壁と、点のように小さくなった狼煙台を見つめながら呟く。
「見えるな……。わしらの仕事が」
船の上からでも分かる。
火ノ山のあたりに上がる煙。下関の碁盤目の通り。門司の町割り。海辺に並ぶ船着き場。
そして洞海湾側――あそこはまだ“骨”だ。だが骨が立てば、肉は勝手についてくる。狂犬堂は、そういう作り方をする。
「敵地潜入から始まってな……」
元康は、自分でも驚くほど素直に言葉を続けた。
「彦島の開墾。商館建設。火ノ山城。下関と門司の町割り。灯台と狼煙台と駐在所。洞海湾の港町。
本舗の技術者と、ひたすら……手を動かして学んだ」
「武士なのに、土木でしたな」
忠次が淡々と言う。
元康は苦笑した。
「武士なのに、だ。……なのに、戦闘訓練は欠かさん。
“武士が畑を耕すのは恥”とか言う連中は、あの姫様に一日預けたら三日で黙る」
甲板の端で、旗本先手役たちが風に当たりながら笑っていた。
笑い声には、どこか荒っぽい明るさがある。
鍛えられた男たちの笑いだ。恐怖を知って、耐えた者の笑いだ。
元康は、ふと声を落とす。
「忠次。わしは何度、お主に愚痴を言うた?」
「数えきれませぬ。ですが――」
忠次は、ほんのわずか口の端を上げた。
「殿が折れなかった回数も、数えきれませぬ」
元康は鼻で息を吐き、目頭が熱くなるのを誤魔化すように海へ視線を戻した。
あの四ヶ月、怒鳴られた。走らされた。眠らされたと思えば起こされた。
理不尽の洪水。
けれど、終わってみれば――体は軽い。迷いが減った。
何より、民の顔を知った。
「報われたな」
元康がぽつりと言う。
「三河守――ってのは、名誉だ。だがそれ以上に……
姫様が、見ていてくれた。あれが、でかい」
忠次は頷いた。
その頷きは、家臣の礼ではなく、同志の肯定に近かった。
しばらく沈黙が流れた。
潮の音と、帆が鳴る音。遠くで、海鳥が一声だけ鳴いた。
忠次が、ふと思い出したように言う。
「……殿。そういえば官位。狂犬家臣団で初めてですな」
元康が眉を上げる。
「初めて?」
「はい。出世一番乗りでは?」
その言い方が、忠次にしては珍しく“茶化し”に近かった。
元康は思わず吹き出し、次の瞬間、笑いが喉で詰まった。
「出世一番乗り、か……」
笑いたいのに、泣きたい。
胸が忙しい。
元康は、拳を握りしめる。
この官位は、飾りではない。
姫様が、連合の制度の中で“松平元康”という駒をきちんと据えた証だ。
出世ではなく、配置だ。責任だ。次の戦のための布石だ。
「……忠次」
「は」
「蝦夷で、もう一段、形にするぞ。
函館とモルエラニ、トヤ。仕様書通り――いや、仕様書以上にだ」
忠次は即答した。
「御意。殿が“以上”と言う時は、だいたい地獄ですな」
「黙れ」
「褒め言葉にございます」
元康は笑った。今度はちゃんと笑えた。
甲板の向こうで、旗本先手役の者たちがこちらを見て、つられて笑った。
潮は速い。
だが潮が速いほど、船は前へ出る。
――彦島の白壁が、水平線の向こうに沈んでいく。
それでも元康の胸の中には、紫の狂犬織と、にっこり笑った“姫様”の顔が、消えずに残っていた。
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十九日/西暦1556年4月19日)
キャラックが福浦港を出た。関門海峡を抜けると、潮の音が強くなり、港の声が遠のいた。
船の上から、彦島と下関と門司が見えた。白壁が増え、町が碁盤の目になり、狼煙台が点々と立つ。
四ヶ月で、景色が変わった。恐ろしい速さだ。
元康様と忠次様は、甲板で仕事の跡を見ていた。
敵地潜入から始まり、開墾、商館、火ノ山城、町割り、灯台、駐在所、洞海湾の港町。
武士なのに土木、と皆が言う。けれどその“土木”が、民の命を守る土台になるのを、私は見た。
忠次様が「官位は狂犬家臣団で初めて」と言った。
元康様は驚き、少し笑って、少し泣きそうだった。
出世一番乗り――その言葉は軽い冗談の形だったが、重い責任の始まりにも聞こえた。
お市様(姫様)は、ちゃんと見ておられた。
見ていたから、与えた。
それが分かるから、皆、前へ進めるのだと思う。




