第336話 官位と涙とキャラック出港
西暦1556年4月19日(弘治二年・卯月十九日ごろ)
長門国・彦島 狂犬堂彦島商館(彦島城)・福浦港
春の潮は、冷たさの奥にぬるさが混じる。
桜が散りきる前の海峡は、白い花びらを流して、何事もなかったような顔をする。
けれど彦島の港は、何事もあった。
商船キャラックが、腹を見せるように福浦港へ横付けされていた。
異国の船は、板も縄も金具もどこか違い、見慣れぬ者ほど息を呑む。
――その船へ、松平元康以下、旗本先手役二百名が、続々と乗り込んでいく。
「はよ行け、はよ行け、荷の積み忘れするなよー!」
藤吉郎が声を張り上げ、荷役の頭が「へい!」と返す。
酒井忠次は名簿を片手に、顔を上げずに人数と荷を数え続けていた。こういう時の忠次は、鉄より固い。
そして港の中央に――狂犬お市様が立っていた。
白衣ではない。
紫の狂犬織に藤色の帯。戦でも診療でもなく、今日は“見送り”の装いだ。
その顔は笑っているのに、目は一点も揺れない。
見送る者の覚悟の目だ。
お市様は、一人一人と握手をした。
大名の握手ではない。武将の儀礼でもない。
“働いた者に礼を言う”握手だった。
「元康様、ありがとうございます」
若い旗本が震える声で言えば、
「礼はわらわではなく、民に言え。畑と港は、民の背で立っておる」
お市様はそう返し、手を離すと次の者へ歩く。
握手が途切れない。列が長い。二百人分の“労い”は、長い。
最後に、元康が港の前へ出た。
涙はまだ堪えている。だが、目の縁が赤い。
お市様は元康の手を取り、ぎゅっと握った。
そのまま、世界一の美貌で元康の目をまっすぐ見つめ――にっこり笑った。
「熱田に着いたら、休暇に入る前に今川へ行け」
「今川へ……?」
「そなたに官位がおりたぞ。わらわからの。
いつも苦労をかけとる。そちへの感謝じゃ。受け取れ」
元康が言葉を失う。
官位――武士にとっては名誉で、同時に責任の鎧でもある。
しかも“今川へ行け”という指示が、意味するところは一つ。
連合の制度に、元康という男を“公式に据える”ということだ。
忠次が、横で一瞬だけ顔を上げた。
そして、何も言わずにまた名簿へ視線を戻した。
(泣くのは、あと)
そう書いてある背中だった。
お市様は、さらりと続ける。丸投げの口調で、しかし内容は細密だ。
「それと帰ったらの、旗本先手役七十ほど縁故募集をかけて、待機させておけ。
石川と交代し、石川が三河に着いたら二十日休暇を取らせよ。
その七十と合わせて百四名で、彦島へ来るように」
藤吉郎が思わず口を挟む。
「姫様、それ、数字が……」
「合っておる」
お市様は即斬りした。
藤吉郎が黙る。
桃は心の中で、(計算は合ってる。合ってないのは人間の体力)と呟いた。
元康が、喉を鳴らしながら言う。
「……承知。
蝦夷の任務、引き継ぎ、必ず果たします」
「うむ。松平三河守――頼むぞ」
官位の名ではなく、国名で呼ばれた。
その瞬間、元康の堤防が決壊した。
「……っ」
言葉が出ない。涙だけが出る。
報われた、と、顔に書いてあった。
命令され、走らされ、泥をかぶり、理不尽に耐え、けれど一度も折れなかった男が、初めて“褒められた顔”をした。
お市様は、ためらいなく元康を抱きしめた。
家臣に対しては「お市様」、姫たちに対しては「母上」。
だが今この抱擁は、呼び名の問題ではない。
“よくやった”の抱擁だ。
背中を、ぽん、ぽん、と叩く。
「さあ。頑張れ」
忠次の目も赤くなっていた。
旗本先手役の中には、顔をぐしゃぐしゃにして泣く者もいた。
泣くのは恥ではない。戦国では、こういう涙の方がよほど高い。
「出港――!」
号令が飛ぶ。
縄が解かれ、帆が鳴り、船腹がきしむ。キャラックがゆっくりと港を離れる。
お市様と狂犬家臣団は、手を振った。
ただ振るのではない。
“帰って来い”と、“次を頼む”を混ぜて振る。
元康は甲板の縁に立ち、何度も頭を下げた。
最後には、手で顔を覆いながら、それでも手を振り続けた。
潮が船を引く。
海峡が船を持っていく。
彦島の港だけが、取り残される。
いや――港は取り残されない。
残る者には、残る者の戦がある。
藤吉郎が、泣き顔のままぼやいた。
「……ほな、姫様。次の丸投げ、どこから行きます?」
お市様は、にやりと笑った。
渋い顔は、もうない。
「まずは人手じゃ。洞海湾が腹を空かせておる。
泣いてる暇があるなら――走れ、藤吉郎」
「理不尽っ!」
「褒め言葉じゃ」
港に、笑いが戻った。
潮の音も、少しだけ軽く聞こえた。
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十九日/西暦1556年4月19日)
きょう、福浦港からキャラックが出た。
松平元康様と忠次様、旗本先手役二百名が乗っていった。蝦夷へ向かうためだ。
お市様は二百人全員と握手した。
握手が“労い”であるのを、私は初めて見た。
戦国の握手は、たいてい“取り引き”か“誓い”だ。
だが今日の握手は、ただ「よくやった」だった。
元康様には官位が下りたらしい。
お市様は「わらわからの感謝じゃ」と言い、今川へ行けと命じた。
命令であり、祝福でもある。
元康様は涙が止まらなくなった。忠次様も目が赤かった。
旗本先手役も泣いていた。誰も笑わなかった。誰も責めなかった。
お市様は元康様を抱きしめ、背をぽんぽん叩いた。
あれは“母上”の抱擁ではなく、“姫様”の褒章だと思う。
呼び名より、意味のほうが大きかった。
船が見えなくなるまで、お市様は手を振っていた。
見送りの手は、戦の手より重い。
私は、そう思った。




