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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第335話 渋い顔の狂犬――蝦夷へ飛ぶ、丸投げの継承

西暦1556年4月16日(弘治二年・卯月十六日ごろ)

長門国・彦島 狂犬堂彦島商館(彦島城)

彦島の朝は、潮の匂いが濃い。

関門海峡の流れは早く、潮に乗って“物”も“人”も“噂”も走る。勝手に増える。勝手に消える。放っておけば、国まで流される。

だから彦島商館の評定の間は、いつも忙しい。

……忙しいのが常のはずなのに。

その日、空気が妙に重かった。

狂犬お市様が、渋い顔をしていたからだ。

「……」

笑わない。

冗談も言わない。

それどころか、首を「ポキ」「ポキ」と鳴らしている。

藤吉郎は、膝の上で両手をきゅっと握る。

(来る。これ、来るやつや……)

最古参の祐筆・桃は、もっと早く察していた。

(ヤバい。母上様……いや、お市様が“戦”か“丸投げ”の顔してる)

前田利家と前田慶次も、互いに目で会話していた。

「今日の訓練より怖いな」

「今日の訓練はただの地獄だが、これは予告なしの地獄だ」

お市様は、評定の間の窓から外を見ていた。

白壁の蔵が増え、漆喰の道が伸び、港が広がり、職人が走り、人足が叫ぶ。

発展している。――発展しすぎている。

「九州が、争乱になっておる」

低い声が落ちる。

藤吉郎が小さくうなずく。

「毛利を撃破してから……伊賀の忍びが、よう働きましたからねえ。各地で大友から離反が……」

「当然じゃ」

お市様は即斬りした。

藤吉郎の背筋が伸びる。利家が心の中で南無を唱え、慶次が口笛を飲み込んだ。

お市様は、畳に広げた地図を指でとん、と叩く。

「大友の大内・毛利政策は、弱腰以下になった。わらわが“撃破した”ことで火がついた。

北九州は水田一割、畑は免除――そうしたら民の目が覚める。

長門も、下関から近い国人は大内瑠璃姫に帰参して同じに寄せざるを得ぬ」

瑠璃姫と徳姫が、少しだけ肩をすぼめる。

“母上”と呼ぶのは二人だけだが、評定の場ではお市様が“お市様”であることに変わりはない。

二人は弟子で娘で、同時に“大内の姫”でもあるから、言葉の重みが胸に刺さる。

利家が真面目に言った。

「……しかし、それで終わりではない。できぬ領主は、民が抜けます。港町の建設と洞海湾の工事に人手が吸われ、領地を維持できなくなる」

慶次が肩をすくめる。

「で、裏切ったら……利家が行ってシバく。俺も行ってシバく。赤備えも行ってシバく。調略だ、調略」

「調略じゃ」

お市様が、また即斬り。

慶次が「はい」と素直に返事をした。理不尽の前では皆、素直になる。

「武田や北条は理解できた。だから連合に加わった。

だが理解できぬ領主は、無残じゃ。民を縛れば国が保つと思っておる。逆じゃ。

民が生きねば、国は空になる」

桃は心の中で思う。

(その“逆”を、いま実演してるのが、お市様や……)

お市様はしばらく黙って、窓の外の訓練馬場を眺めた。

旗本先手役が走っている。汗が光る。

火ノ山の方角から、砲の訓練音が遠く響く。景虎姉上は今日も元気に“新兵器と火縄銃の連携”を鍛えているのだろう。

その沈黙が、ふっと切れた。

「……蝦夷に、いかねばのー」

評定の間の空気が、いっせいに固まった。

藤吉郎が喉を鳴らし、桃が筆を持つ手を一瞬止め、利家と慶次が同時に天井を見る。

お市様は、淡々と続ける。

「ピリカが熱田で農政を学んでおる。五月には函館へ帰らねば、畑作が間に合わぬ。

畑は季節が命じゃ。遅れたら一年が死ぬ」

藤吉郎が恐る恐る言う。

「お市様、西国がいまこの状況で……蝦夷まで?」

「じゃから渋い顔をしておる」

正論で殴られた。

藤吉郎が一瞬だけ“ぐぬぬ”の顔になる。

そのとき、お市様が急に手を叩いた。

「あっ! 忘れておったわ。元康と忠次を呼べ」

桃が立ち上がりかけたが、藤吉郎が反射で跳ねた。

「は、はいっ! すぐにっ!」

――ほどなくして。

松平元康と酒井忠次が入ってきた。二人とも朝から現場を回っていたのか、ほんのり汗の匂いがする。

元康は礼儀正しく頭を下げ、忠次は目だけで空気を読んだ。

お市様は、前置きなく落石みたいに命じた。

「元康、忠次。旗本先手役二百。明後日、三河へ帰れ。十日休んで、函館へ行け」

元康の目が一瞬だけ見開かれる。

だが声は落ち着いていた。

「……承知いたしました。交代は?」

「石川数正ら四人と、旗本先手役三十が交代じゃ。

元康、函館とモルエラニ、トヤの開発を頼む。蝦夷仕様書に書いておる」

忠次が、喉の奥で小さく息を吸った。

“蝦夷仕様書”。

この世界で最も恐ろしい単語の一つである。読むと寝不足になる。読み終えると人生が仕様書に支配される。

桃は心の中で合掌した。

(元康様……南無……)

だが元康は、まっすぐにうなずいた。

「承知。畑も港も道も、形にして見せます。

五月前に動けるなら、最善です。土が起きる前に種と人と道具を揃えます」

「そうじゃ。わらわも分かっておる」

お市様はようやく、ほんの少しだけ笑った。

渋さの中に、春の色が差す。

そして――追撃の丸投げが来る。

「わらわは今、西国から離れぬわけにはいかぬ。

じゃが、丸投げ出来るようになれば……藤吉郎に丸投げして、蝦夷に向かう」

藤吉郎の顔が一瞬、死んだ。

しかし次の瞬間、いつもの商人根性の笑顔で胸を叩いた。

「お市様! 任せてください!

……受け止めます! 受け止めて、たまに投げ返――」

「投げ返すな」

即斬り。

評定の間に、くすっと笑いが落ちる。

緊張が少しだけほどけた。

慶次が小声で利家に言った。

「藤吉郎、火消し役じゃなくて導火線役よな」

利家も小声で返す。

「最古参は避雷針になれんのや……」

瑠璃姫が、お市様の袖を軽くつまんだ。

「……お市様。蝦夷へ行かれるなら、私たちも学ばねば。医術も、民の暮らしも」

徳姫もこくんとうなずく。

「わたしたち、もっと働きます。ここを――お市様が安心して離れられるように」

お市様は二人の頭を撫でた。

この瞬間だけ、姫たちは“娘”の顔になる。

「うむ。よい子じゃ。医師は患者の幸せを第一と心得よ。

そして政治は、民の明日の飯を第一と心得よ」

言葉が、畳に落ちて染みる。

戦国の評定なのに、話しているのは“飯”と“薬”と“畑”だ。

それが狂犬の国だった。

窓の外で、潮が鳴る。

潮は止まらない。だから走る。だから作る。だから守る。

その理屈が、この女の背中を押している。

渋い顔の理由は一つ。

お市様はどこも見捨てない。

西国も、蝦夷も。――だから渋い。

祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十六日/西暦1556年4月16日)

きょう、彦島商館の評定の間で、狂犬お市様が渋い顔をしていた。

渋い顔のときは、戦か、丸投げか、だいたい両方である。だいたい当たる。私は当てたくない。

九州は争乱。離反が出て、民が流れる。

港町がふくらむほど、周りの国は空になる。

理解できる武田や北条は連合に入ったが、理解できぬ領主は無残だと、お市様は言った。

私は、筆が重かった。正しいから重い。

そしてお市様は「蝦夷にいかねば」と言った。

ピリカが熱田で農政を学び、五月には函館へ戻らねば畑作が間に合わない、と。

畑は季節が命。遅れたら一年が死ぬ。

その言葉が怖かった。戦より怖い。

さらに、元康様と忠次様に命が落ちた。

明後日三河へ帰り、十日休んで函館へ。旗本先手役二百。

交代は石川数正様ら四人と旗本先手役三十。

蝦夷仕様書、という言葉も出た。聞いただけで眠気が飛ぶ。

最後に、お市様は藤吉郎様へ丸投げを示した。

藤吉郎様の顔が一瞬だけ死んだが、笑って受けた。

投げ返すな、と即斬りされた。みんな少し笑った。

笑えたのは、たぶん救いだ。

渋い顔の理由は分かる。

お市様は、どこも見捨てない。

だから渋い。

その渋さは、春の苦みみたいで、私は嫌いじゃない。

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