第333話 帆柱は逃げ場じゃない――白い石と黒い石が国を起こす
西暦1556年4月15日(弘治二年・卯月十五日ごろ)
筑前国・遠賀郡~豊前国・小倉/若松~門司(洞海湾一帯)
遠賀郡の麻生家は、遠賀川を挟んで東西に領地を持っていた。川は恵みで、同時に戦国の境でもある。
だが麻生は宗像氏にしばかれ、西を割譲。残った東だけを抱えて、帆柱山の帆柱城へ“逃げた”。
頼りにした大内は陶にしばかれ、陶は陶で宗像を粛清祭りみたいに刈り取り、周辺は血と怨みでぐらぐらになった。
心細くなって毛利を頼ろうとした矢先、その毛利が狂犬にしばかれ、小早川が狂犬に頭を下げに行った――噂が遠賀まで届く。
麻生隆実は、胃がきゅっと縮んだ。
(……あ、次、うちの番や)
そんなときに来たのが、木ノ下藤吉郎の調略だった。
降れ、という話ではない。“生きろ”という話だった。
だから隆実は涙が出るほど嬉しかった。
しかし、狂犬の「助ける」は、たいてい手段が荒い。
帆柱城へ乗り込んできたのは、木下小一郎と狂犬堂本舗の技術者集団だった。
泣く子も黙る“本舗”――というより、泣く間もなく仕事を振ってくる集団である。
「麻生殿。泣いて喜ぶ前に、案内してもろてええか」
小一郎は笑っている。口調は丁寧。
だが背後の職人たちは、縄を張り、棒で地面を叩き、川の流れを見て、もう勝手に現場を仕切っている。
「こ、これは……何を……?」
「白い石と黒い石や。平尾台の石灰石、飯塚の石炭。狂犬様が要る言うたら要る」
「……掘るにも人が……」
「人は作る。川は使う。山は掘る。――で、儲ける」
言い切られた瞬間、隆実は悟った。
助ける=動かす。救う=働かせる。慈悲=工程表。
遠賀川だけではない。紫川にも手が伸びた。
川筋に川浪衆が組織され、人足が“運ぶ”こと自体を仕事にする。
若松には常滑焼の窯が据えられ、芦屋釜の芦屋にも窯が増えた。
石灰石を焼いて生石灰を作り、水車で粉にして漆喰の材料にする。
粉は小倉へ卸され、さらに洞海湾の港町へ運ばれた。
洞海湾の港町では、別の地獄が動いていた。
耐熱レンガで組まれた高炉――赤々と燃え、息をしているみたいに唸る。
そこへ石炭、鉄鉱石、たたら鉄が集められる。出雲から、そして海の向こう――朝鮮からも。
「……国人の城下の仕事ちゃうぞ、これ」
隆実が漏らすと、小一郎は肩をすくめた。
「せや。もう“国人”やない。港と炉と川が揃ったら、国や。狂犬様がそう決めはった」
決めはった、で国が変わるのが、狂犬堂だ。
そして今日。
隆実は小一郎に連れられて、門司の無料診療所へ来ていた。
“報告”のために。
門司の町は、帆柱とは別世界だった。
人が走り、荷が動き、甘味の匂いが漂い、異国訛りまで混じる。
治安のための同心が目に入る。
寺小屋の子が笑っている。
戦国の港町なのに、どこか「暮らしの音」が勝っていた。
診療所に入ると、白衣の娘たちが忙しく動いていた。
カルテを書き、薬を挽き、煎じ袋を縛る。
その中に祐筆桃がいる。筆の速さが化け物だ。
「小一郎殿、おつかれさまです。……あ、麻生殿」
桃が気づいて会釈した。
隆実は慌てて頭を下げる。ここでは身分より、“狂犬に近いか”が強さだ。
奥の部屋から声がした。
「入れ。……小一郎か。丸投げの成果を見せよ」
白衣を着た狂犬お市が、机に肘をついて座っていた。
口には、最近作ったという子供用の竹串つき飴。
甘そうなのに、目は獣のそれである。
「そちらが麻生殿じゃな。遠賀の帆柱……うむ、顔が良い。だが目の下が死んでおる」
「……はっ」
「働きすぎじゃ。わらわの丸投げに付いて来た顔じゃ」
いきなり殴ってくる。
小一郎が帳面を開き、淡々と報告した。
「平尾台、採掘口を確保。焼成窯は芦屋と若松で稼働。水車の粉砕は遠賀川と紫川で回し始めました。石灰は小倉へ卸してます。石炭は洞海湾へ。高炉は耐熱レンガで組んで、出雲と朝鮮の鉄鉱石・たたらを溶かして、鋼の歩留まりも上がってます」
お市は飴をくるりと回し、頷いた。
「うむ。白い石で壁が増える。黒い石で鉄が増える。鉄が増えれば鍬も釘も増える。鍬が増えれば畑が増える。畑が増えれば腹が満ちる。腹が満ちれば、民は売られぬ」
最後の一言だけ、温度が落ちた。
甘い飴と、冷たい決意が同居している。
隆実は息を飲む。
漆喰も窯も高炉も、結局そこへ戻るのだ。
「麻生殿」
お市が竹串を指で弾いた。飴が微かに鳴る。
「宗像に叩かれた。陶に怯えた。毛利に縋りたかったが、その毛利が折れた。……分かる。戦国はそういうものじゃ。じゃが、ここからは変える」
「……いかように」
「川と炉と港が揃えば、年貢を下げられる。年貢を下げれば民が逃げぬ。民が逃げぬ国は痩せぬ。――その代わり、決まりは一つ」
お市の目が、まっすぐ隆実を刺した。
「民を売るな」
隆実の喉が詰まった。
当主に面と向かって言う言葉ではない。だが、この女は言う。言って、実現する。
「食えぬ者が出るなら、働き口を作れ。子は寺小屋で育てよ。国の子じゃ。麻生殿の宝ではない。国の宝じゃ」
言葉が理屈で、理屈が刃で、刃が慈悲の形をしている。
隆実は震える声で答えた。
「……承知、いたしました」
お市は急に顔を緩め、飴をくわえ直した。
「よし。では褒美じゃ。麻生殿、門司の団子屋で今川焼を食え。銭は小一郎につけておけ」
「えっ」
「食え。働くには糖が要る。医者の命令じゃ」
医者の命令の使い方が雑すぎる。
小一郎が横で、苦笑いした。
「ほら麻生殿。断ったら、次は“鍛冶場で試作”言われますえ」
隆実は背筋が凍った。
「……今川焼でお願いします」
桃が横で、笑いを噛み殺しながら筆を走らせている。
この国はたぶん、戦よりも“現場”で変わっていく。
診療所の外では、門司の潮風が甘味の匂いを運んでいた。
隆実は、その匂いの中で、胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。
(帆柱は、逃げ場じゃない。――国になる)
そう思った瞬間、背後でお市が叫ぶ。
「小一郎! 次は洞海湾の狼煙台じゃ! 元康と風魔に丸投げしておけ!」
隆実は目を閉じた。
(……やっぱり嵐だ)
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十五日/西暦1556年4月15日)
麻生殿が門司の診療所に来た。
“来た”というより、小一郎殿に連れて来られた。本人の顔がそれを物語っていた。目の下が完全に本舗の色だった。
報告は、白い石と黒い石。
平尾台の石灰石、飯塚の石炭。遠賀川と紫川の川浪衆。芦屋と若松の窯。小倉への卸。洞海湾の高炉。耐熱レンガ。出雲と朝鮮の鉄。
文字にすると、戦より重い。
母上は竹串つきの飴をなめながら聞いて、最後は必ず「民を売るな」と言う。
飴は甘いのに、言葉は真っ直ぐで、逃げ道がない。
麻生殿は震えながら「承知」と答えた。
怖いのは、母上の狂犬ぶりではなく、理屈で“国の形”を見せられることだと思う。
それでも、麻生殿の顔が少し前を向いた。
国人が国になる瞬間を、筆で見た気がした。




