第331話 軍神、関門の主を釣る――赤き首巻きと太鼓の唄
西暦1556年4月13日(弘治二年・卯月十三日)
長門国・彦島城/関門海峡
狂犬お市様は、銭の匂いに敏感である。
戦場では血の匂いを嗅ぎ分け、町では銭の匂いを嗅ぎ分ける。
そして、そのどちらも楽しむ。
春の彦島城、評定も軍議もない束の間の静日。
お市様は、珍しく医務室でも評定の間でもなく、工房にいた。
床に散らばる木屑。
赤く染められた木綿。
削りかけの木片。
「姉上、首が寒いと言っておったな」
お市様は、二本の棒を器用に操っていた。
棒針だ。尾張の熱田や鳴海でも広まりつつある、編み物の新技法。
「……わらわの軍神に風邪をひかせるわけにはいかぬ」
赤い木綿糸が、くるくると絡まり、やがて首巻きへと形を成す。
そこへ、藤吉郎が顔を出した。
「殿、また何か思いつきましたな」
「思いつきではない。これは“冬の関門対策用品”じゃ」
「今は春でございますが」
「今のうちに売る準備をするのが商いじゃ」
藤吉郎は、はは、と笑いながらも帳面を取り出す。
「で、これはいくらで?」
「子供には半値。兵には原価。姉上には無料じゃ」
「姉上だけ特別待遇ですな」
「当然じゃ」
そこへ、もう一つの作品が机に置かれていた。
魚の形をした木片。
腹に鉛、尾に毛束。
「……それは」
「疑似餌じゃ」
お市様は誇らしげに胸を張る。
「生き餌は手間がかかる。これなら繰り返し使える。銭の節約、時間の節約、そして――」
「銭の匂い」
「うむ」
さらに、横には奇妙な道具があった。
太鼓のような円筒に糸が巻き付けられ、横に小さな取手が付いている。
「これは何でございます」
「糸巻き取り機械じゃ」
「……」
「太鼓の形だから“太鼓リール”じゃ」
藤吉郎はしばし沈黙し、やがて真顔で言った。
「狂犬堂本舗で量産できるか、確認してまいります」
こうして、小一郎率いる技術者たちは、またも“殿の丸投げ”と格闘することになった。
翌朝。
夜明け前の関門海峡。
まだ空は群青色、東の空がわずかに朱を帯び始める頃。
景虎姉上は、真っ赤な首巻きを巻いていた。
「似合うかの?」
慶次が大袈裟に拝む。
「軍神にして漁神。まことに尊い」
「黙れ」
だが景虎の口元は、わずかに緩んでいる。
手には新しい竿。
そして、太鼓リール。
「これが例の」
「そうじゃ。糸が絡まぬぞ」
慶次が感心する。
「殿は戦も早いが、道具も早いな」
「銭の匂いがすると手が勝手に動くのだろう」
二人は小早船に乗り込み、関門の潮へと漕ぎ出す。
今日の狙いは――スズキ。
関門海峡は潮の変化が激しい。
上げ潮、下げ潮、渦、反転流。
「ここだ」
景虎が船を止める。
疑似餌を投げる。
太鼓リールが滑らかに糸を送り出す。
「おお……」
慶次が目を見張る。
「糸が絡まぬ」
「当然じゃ。わらわの妹が作った」
しばらく沈黙。
潮の音だけが響く。
やがて――
ぐん、と竿がしなる。
「来た!」
景虎の目が鋭く光る。
太鼓リールが唸る。
糸が滑らかに巻き取られていく。
慶次が笑う。
「軍神、魚とも一騎打ちか!」
「黙って網を構えよ!」
激しい引き。
関門の潮と魚の力が竿を通して伝わる。
「負けぬ!」
景虎が踏ん張る。
数刻の攻防の末――
銀色の巨体が水面を割った。
「スズキ!」
慶次が叫び、網で掬い上げる。
見事な大物だった。
朝日が昇る。
銀鱗が朱に染まる。
景虎は、静かに魚を見つめる。
「……釣りも戦も同じだ」
「ほう?」
「焦らず、潮を読み、引くべきときに引く」
慶次が笑う。
「さすが軍神。釣りまで軍略か」
「当然じゃ。関門の主は、今日からわらわだ」
遠く、彦島城の白壁が朝日に輝いている。
その城では今頃、小一郎たちが太鼓リールの量産試作に頭を抱えていることなど、景虎は知らない。
お市様は城の天守から、海を眺めていた。
「……銭の匂いがするの」
釣具、首巻き、疑似餌。
次は“狂犬式海戦用携帯竿”でも売り出すか。
狂犬堂の商いは、今日も静かに広がっていく。
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十三日/西暦1556年4月13日)
本日、景虎姉上は新作の竿と太鼓糸巻きでスズキを釣られた。
母上は、釣り道具にも銭の匂いを見る。
二本の棒で首巻きを編み、木片で魚を作り、太鼓で糸を巻く。
技術者衆は毎夜苦労しているが、商いは確かに伸びている。
姉上は、釣りまで軍略と申される。
慶次殿は、それを面白がる。
戦国は、血と銭と潮の流れ。
だが今日は、朝日と魚の銀色が美しかった。
関門の主は、しばらく姉上でよい。




