第330話 鬼か修羅か、福浦沖大運動会――泳げぬ者に海は語れぬ
西暦1556年4月12日(弘治二年・卯月十二日)
長門国・福浦港沖/彦島沖
春の海は、優しい顔をして人を騙す。
福浦港の朝は澄み渡っていた。
凪いだ水面は青く、潮の流れは穏やかに見える。だが関門海峡の潮は甘くない。時間とともに牙をむく。
その港の浜辺に――
褌に槍。
なんとも戦国らしい、なんとも狂犬らしい光景が広がっていた。
柴田権六勝家は、腕を組みながら怒気を孕んでいた。
その隣で滝川一益は涼しい顔を装い、佐々成政は浜の石を足で転がしている。
そして少し離れて、長宗我部兄弟が互いに顔を見合わせていた。
今日の訓練は、水陸両用機動隊の“水道潜入襲撃訓練”。
名目は立派だ。
内容はもっと立派――いや、理不尽だった。
「……慶次殿はどこだ」
勝家が低く唸る。
利家が額に手を当て、遠く沖を指さした。
「……あそこ」
沖合に、堂々と浮かぶ安宅船。
その甲板から、ひらひらと手を振る二つの影。
一人は、派手な身振りの前田慶次。
もう一人は、桜色の装束が海風に翻る――長尾景虎。
「釣りしておる……」
滝川一益が、淡々と事実を告げた。
景虎の竿がしなり、慶次が歓声を上げている。
どう見ても“襲撃訓練の指揮”ではない。
勝家の眉がぴくりと動いた。
「……何だ、あれは」
利家が渋い顔で説明する。
「まず、ここから泳いで安宅船に辿り着け、と。そこから別の海域へ移動し、別地点を奇襲せよ、とのことだ」
佐々成政が思わず声を上げた。
「はぁ!? 最初から船に乗せろ!」
利家は肩をすくめる。
「“伊勢湾で鍛えた泳力を見せてみよ”と、姉上が」
沖から、甲高い声が響く。
「鬼になれ! 修羅になれ! やってやれー!」
景虎が叫んでいた。
何が「やってやれー」なのか、浜の者たちには分からない。だが腹が立つことだけは確かだった。
慶次が大声で煽る。
「泳げぬ者は水陸両用機動隊失格だぞー!」
勝家の額に青筋が浮かぶ。
「……よし」
それだけ言うと、勝家は槍を砂に突き立て、褌一丁で海へ踏み出した。
「おおおお!」
一益、成政も続く。
長宗我部兄弟も一瞬迷ったが、弟の親貞が笑った。
「土佐の海を忘れたか、兄上」
元親が頷く。
「狭い土佐と言ったのは誰だ。ここで見せる」
そして、全員が一斉に海へ飛び込んだ。
冷たい。
四月の海は、まだ春の顔をしていない。
息が詰まり、身体が一瞬硬直する。
だが、関門の潮は待ってくれない。
「流されるな! 右へ切れ!」
利家の怒声が飛ぶ。
水面を割る音、荒い息、波を掻く腕。
安宅船から、景虎が満足そうに見下ろす。
「ほう……悪くない」
慶次は、釣ったアジを桶に放り込みながら笑う。
「泳ぎながら隊形を崩さぬ。水中でも連携は崩れておらぬな」
その間にも、景虎の竿が再びしなる。
「来たぞ」
慶次が網を構える。
引き上げられたのは、見事な真鯛。
甲板に歓声が上がる。
浜からは怒号が上がる。
「釣りしとる場合かあああ!」
勝家が水を吐きながら吠える。
慶次は悪びれもせず、肩を竦めた。
「戦はな、腹が減ってはできぬ」
「訓練中だ!」
「訓練後の浜焼き用だ」
その一言で、泳ぐ者たちの目の色が変わった。
「……浜焼き?」
佐々成政が小さく呟く。
慶次が桶を掲げる。
「真鯛、アジ、イカもあるぞー!」
途端に、泳ぐ速度が上がった。
長宗我部兄弟も、内心の不安を吹き飛ばしながら笑う。
「兄上、土佐の海より優しいぞ!」
「油断するな、潮は速い!」
途中、潮に流されかけた者は小早船に回収される。
それもまた訓練だ。
安宅船へ辿り着いた者から、甲板に引き上げられる。
全身びしょ濡れ、肩で息をしながらも、誰一人脱落しない。
勝家が甲板に上がり、景虎を睨む。
「……鬼か」
景虎は涼しく笑う。
「修羅だ」
慶次が魚を並べながら言う。
「だが、今日の勝者は潮と魚だな」
全員が一瞬、黙る。
そして、景虎が指を鳴らした。
「よし。浜へ戻るぞ。今日は“水上襲撃成功記念浜焼き”だ」
「それ、訓練名に含まれておらん!」
滝川一益が冷静に突っ込む。
だが船は浜へ向かう。
火が起こされ、炭が赤くなり、真鯛がじゅう、と音を立てる。
アジは開かれ、塩を振られ、串に刺される。
褌姿のまま、全員が浜に座り込む。
景虎は満足げに海を眺める。
「水を制する者が、陸を制す」
慶次は笑う。
「そして魚を制する者が、腹を制す」
勝家は真鯛をかじりながら、低く言った。
「……次は最初から船に乗せろ」
浜に笑い声が広がった。
春の関門海峡は、今日も理不尽で、今日も賑やかだった。
祐筆桃の日記(弘治二年 卯月十二日/西暦1556年4月12日)
今日は福浦沖で、水道潜入襲撃訓練。
……のはずが、途中から浜焼き大会になっていた。
景虎姉上と慶次殿は、本当に訓練と遊びの境目がない。
けれど、泳げぬ武士に海戦は任せられぬ、というのは正しい。
柴田殿が褌一丁で怒っておられた。
滝川殿は冷静だが、最後は一番魚を食べていた。
長宗我部兄弟は、土佐の海の話をしていた。
海を知る者は、潮を恐れすぎず、侮らない。
母上は言う。
「遊びの中にこそ、戦の種がある」と。
今日の浜焼きは美味しかった。
だが、帳面には“水陸両用機動訓練・成功”と書いておく。




