31話 戦の匂いがしてきた尾張 ――狂犬、吠え、噛みつく――
西暦一五五二年(天文二十一年)五月 初夏 尾張・清州
――狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
父・織田信秀様が、三月に亡くなった。
尾張の虎。
尾張を喰い、守り、吠え、睨み、支配した男。
――だが。
死ぬ時は、あっけない。
人は皆、等しく時に負ける。
この流れだけは、狂犬でも噛み切れぬ。
◆清州・葬儀
寺は静まり返っていた。
香の匂いが重く、湿った空気が肺に残る。
わらわは、十六になった。
もう「姫」ではなく、「女」だ。
寧々が仕立てた狂犬織の喪服。
黒の中に、わずかに深紅が走る。
――喪に服しながら、牙を隠す布。
狂犬家臣団も、全員が同じ狂犬織の喪服。
桃、藤吉郎、寧々、まつ、くのいち三人。
――異様だが、整っている。
兄上――信長が喪主。
信行兄上。
そして、わらわ。
三人並び、読経と唱題。
静かに、だが重く弔われた。
◆葬儀中・小声地獄
読経の合間。
桃が、隣で小さく呟いた。
「……胃が、葬式前から葬式です」
「うるさい。静かにせよ」
「胃が鳴くのは不可抗力です……」
まつが口元を押さえて震える。
「なぁ……これ、喪服やんな?」
「そうじゃが」
「狂犬織やから、めっちゃ目立つ……」
「意図的じゃ」
寧々が小声で。
「姫様、信行様、こっちめっちゃ見てます」
「草でも生えておるのか?」
「……目が死んでます」
信行兄上は、遠くを見ていた。
庭の草を見る目だ。
――狂犬ライブが効きすぎた男の目。
藤吉郎は――
頭が、光っている。
坊主より光っている。
信秀様よりも、仏よりも。
「藤吉郎」
「は、はい」
「頭、反射しておるぞ」
「すみません!制御できません!」
桃が呻く。
「葬式で……胃が……」
◆葬儀後・地獄の数分
葬儀が終わった、その時。
兄上――信長が、藤吉郎の前に立った。
空気が、一瞬で凍る。
「……藤吉郎か」
「は、はい」
「身体、鍛えたな。背も伸びた」
「え、あ、ありがとうございます」
信長の目が、獲物を見る目になる。
「市」
「……なんじゃ」
「藤吉郎を、もらっていくぞ」
◆全員「は?」
「「「「「は?」」」」」
藤吉郎の魂が口から抜けた。
「へ?」
桃、腹を押さえる。
「……あっ、これは……胃じゃなくて……事件です……」
まつ、即ツッコミ。
「ちょっと待って!?今なんて!?」
寧々、血の気が引く。
「……え?」
くのいち三人、即戦闘姿勢。
「敵ですか?」
「排除します?」
「いまですか?」
わらわは――
反射で動いた。
兄上と藤吉郎の間に、踏み込む。
「……兄上」
「なんじゃ」
「本気か?」
間。
空気が張り詰める。
「藤吉郎は――」
「わらわの婿ぞ」
その瞬間。
織田家臣団、全員が
腹を押さえた。
「「「うっ……!」」」
丹羽殿、むせる。
柴田殿、膝をつく。
五郎又、顔が真っ赤。
信行兄上――
尻餅をついた。
「え……ええ……?」
藤吉郎、完全に思考停止。
「……え?」
◆狂犬、牙を剥く
信長が、目を細めた。
「差し出せ」
その一言で、
わらわは――刀に手をかけた。
音もなく。
「……兄上」
「なんじゃ」
「本気なら、わらわも本気になるぞ」
境内が、静まり返る。
誰も動けぬ。
誰も息を吸えぬ。
藤吉郎の光だけが、無駄に反射している。
「ちょ、ちょっと……俺、光ってる場合ちゃう……」
信長、長い沈黙。
やがて、鼻で笑った。
「………………好きにせよ」
「五郎又」
「はっ!」
「帰るぞ」
踵を返す信長。
織田家臣団、
全員、腹を押さえたまま撤退。
「ぐっ……!」
「腹が……!」
「胃が……!」
信行兄上は、地面に座ったまま、空を見ていた。
「……草……抜こう……」
◆帰路
「藤吉郎」
「は、はい」
「帰るぞ」
「は、はい……」
「寧々、まつ」
「聞こえておるか?」
「「は、はい……」」
全員、無言で頷く。
桃が、最後に呻いた。
「……お腹が痛い……」
わらわは言った。
「それが、生きておる証じゃ」
◉桃の祐筆(感想)
戦は、刀から始まるのではない。
欲と人から始まる。
今日、尾張に――
はっきりと、戦の匂いが立った。
そして理解した。
狂犬お市様は、
商いの狂犬では終わらぬ。
この方は――
尾張そのものになる。
◉桃の日記(私記)
葬儀で刀に手をかける姫様を見た。
正しい。と、思ってしまった。
藤吉郎殿が婿だと知り、
織田家臣団が腹を押さえた理由が分かる。
これはもう、戦より怖い。
明日から、
帳簿の横に――
戦況図も描くことになりそうだ。
胃が痛い。
だが、筆は止まらない。




