第324話 碁盤の目の赤間関――狂犬宿の湯は、因縁つき
西暦1556年4月9日(弘治二年・卯月下旬/春 長門・赤間関〈下関〉)
門司から渡し船に乗ると、潮の流れが早い。
関門海峡は、海というより“川”だった。櫂の音の合間に、船頭が笑いながら言う。
「坊さんら、下関は初めてか? 門司より“出来とる”ぞ」
「出来とる、とは」
道雪が抑えた声で問う。
雪下が先に察してしまい、ぼそりと付け足した。
「……町が、ですな」
船が着く。赤間関――下関。
見た瞬間にわかる。門司が“賑わいの芽”なら、ここは“仕組みの街”だ。
通りが広い。火の回りを止めるためだろう。
しかも碁盤の目。荷車がすれ違える。人が急いでもぶつからない。
そして何より――通りごとに顔がある。
「甘味通り」「居酒屋通り」「宿屋通り」「呉服通り」「商館通り」
「堺通り」「博多通り」
看板の文字が、堂々としている。
堺通り、博多通り――わざわざ名乗るのは、客を呼び込むためだけではない。
“よその者が居ても良い街”にするための、仕掛けだ。
寺も目立つ。門司の草庵が“子どもの遊び場”なら、下関側は“本山の喧嘩”みたいな熱がある。
宗派が競って寺を建て、寺小屋を“無料”で開いている。
学門所の前では、子どもが墨だらけの指で笑っていた。
「……宗派が競って、民が得をする。皮肉だな」
道雪が呟く。
雪下は、歩きながら周囲を見回す。
「奉行所も、陸と海で二分。海の揉め事は海で裁く。陸は陸。港の揉め事を山の役所に持ち込まん。合理的です」
二人は、宿屋の暖簾をくぐった。
「宿屋 狂犬」
またもや、名乗りが強い。
だが中身はさらに強かった。
玄関に札がある。
――泊まれば泊まるほど、点が貯まる。
――三十回で一回無料。
雪下が札を見て、固まった。
「……坊さん二人、点を貯める未来が見えますな」
「見えん。縁起でもないことを言うな」
道雪が睨む。
睨まれても、雪下は真顔で続けた。
「いえ、商人が絶対に戻ってきます。点は、忠義より強い」
一階の大広間は、待合というより“市”だ。
商談がそこらじゅうで始まっている。
荷札、帳簿、印、指差し、値の駆け引き。訛りも混ざる。甲斐、関東、堺、博多。
戦国の血の匂いより、銭の匂いが濃い。
奥に「大浴場」。男湯と女湯がきっちり分かれ、湯気の向こうがやけに明るい。
入り口には堂々と書かれていた。
「天然温泉」
道雪が眉をひそめた。
「……下関に温泉など」
「あります。狂犬が掘りました」
宿の女将が、当たり前みたいに言う。
「掘った、だと?」
雪下が聞き返すと、女将は笑いながら指で数える。
「狂犬さまが金属の棒を持って、うろうろしてな。『ここを掘れ、井戸じゃ!』って」
「……金属の棒」
「ほれほれ言われて旗本先手役が掘り続けたら、湯がドン! って出てな。熱うて火傷した者もおる」
女将は、悪びれず言い切る。
「それが、因縁の湯よ。火傷にも皮膚病にも、リュウマチにも、婦人病にも……とにかく“なんでもええ”って評判や」
道雪は、顔を覆いたくなった。
無茶をやって、当てて、制度にして、民の笑顔に変える。
やってることが戦より危険なのに、結果が美しい。
雪下が小声で吐き捨てる。
「……理詰めの狂気ですな」
「奇天烈宗麟と比べると、余計に腹が立つ」
道雪の声に、疲れが混じる。
「同じ狂気でも、“民が助かる狂気”は、始末が悪い」
二階の窓から、海が見えた。
港の外れに、関船が一艘。紋が見える。毛利――小早川水軍だ。
道雪の背筋が冷える。
雪下も、湯気の向こうで目を細めた。
「……見えましたな」
「あれは、ただの寄港か。あるいは――」
言いかけた瞬間、廊下を走る足音。
宿の若い者が飛び込んでくる。
「坊さま! ……いや、お二人さま! 港の見張りから伝えが!」
若い者は息を整えながら、声を落とした。
「毛利の関船が、増えます。今夜か、明日か。――“客”が来ます」
雪下が、口元だけで笑う。
嫌な笑いではない。覚悟が決まった笑いだ。
「下関は、泊まれば泊まるほど点が貯まる」
「……それどころではない」
道雪は、窓の外の海を見つめた。
「この街は、客が来れば来るほど――戦も来る」
碁盤の目の赤間関。
湯気の街の春は、甘い。
甘いからこそ、刃がよく切れる。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬)
門司から下関に渡っただけで、“街の格”が違うの、ほんまに怖い。
道雪さまと雪下さま、着いた瞬間から無言でキョロキョロしてはった。
あの二人が黙るって、だいぶ衝撃。
宿屋狂犬、点カード制度まである。
三十回で一回無料て、商人が逃げられるわけないやん。
忠義より強いのは、点。これは真理や。
あと、天然温泉。
狂犬母上が金属の棒持って「ここ掘れ」ってやった結果、旗本先手役が火傷。
……因縁の湯って、そういう因縁かい。
でも、みんなニコニコして入ってる。治るって信じてる。
で、窓から見えた小早川の関船。
道雪さまの顔、湯気より白かった。
雪下さまは、諦めたみたいに笑ってた。
下関は、仕組みで人を幸せにする街。
でも、仕組みが光ると、影も濃うなる。
明日、何が来るんやろ。
海峡の潮より、胸が落ち着かへん。




