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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第323話 狂犬病と卵焼き――雷神、酔うて忠義を噛む

西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春 豊前・門司)

門司の夜は、潮の匂いと、炭の匂いが混じる。

港の荷は昼ほど忙しくないが、灯りは増えていた。狂犬が来てから、町は“夜”を怖がらなくなったらしい。

道雪と雪下は、門司の裏通り――いや、裏通りのはずが人通りが多すぎる通りを歩いていた。

目当ての暖簾が見える。

「狂犬居酒屋 狂犬病」

とんだ店名である。

僧侶姿で入っていく自分たちも大概だが。

戸を開けた瞬間、湯気と笑い声が顔にぶつかった。

カウンターには人足、船頭、商人、訛りの違う武士まで肩を並べている。奥では団子屋の女将が、今日の出産の話をして涙ぐんでいた。

「いらっしゃい! お、坊さん二人。生臭いの、歓迎じゃ」

女将が笑って迎える。

――居酒屋の女将である。坊さん相手に遠慮がない。

道雪は黙って座った。

雪下が、ぼそりと突っ込む。

「……寺町の辻説法より、ここが一番“人を救って”ますな」

「言うな。耳が痛い」

二人はカウンターに並び、酒を頼んだ。

出てきた肴は、玉子焼きと小鉢の煮物。質素なのに、うまい。だが、そこが余計に効く。

道雪は箸を止め、目の前の玉子焼きを見つめたまま言う。

「正体は……ばれておるな」

雪下は酒を一口飲み、ため息を混ぜた。

「脈の取り方が“人の本性”を見抜くやつです。あれに触られたら、名乗らんでも終わりですわ」

道雪の脳裏に、白衣の女が浮かぶ。

粉瘤を切開し、縫い、出産を指揮して、最後に飴玉を妊婦に含ませた――あの手際。

「暗殺はせぬ、と言うか」

道雪が、低く問う。

「せんでしょうな。あれは“殺して勝つ”より、“生かして支配する”方が強いと知ってる顔です」

雪下が即答する。

「だが忍びは動いておる」

「暗躍すれど暗殺なし、ってやつですな。悪口が広がる速度と、商館が建つ速度が同じ……いや、商館が勝ってる」

道雪は笑いかけて、途中でやめた。

笑ったら、忠義が薄まる気がしたからだ。

店の客が、別の卓で騒ぐ。

「関門の関銭、また上がったらしいぞ」

「上がったんじゃねえ、取る相手が増えたんだよ。狂犬連合以外は手数料、ってやつだ」

「でも倉庫が増えたから荷が痛まねえ。結局、損してねえんだよなぁ」

雪下が小さく舌打ちした。

「戦をせずに戦線を広げる。人を殺さずに敵を削る。……主君が聞いたら泡吹きますわ」

道雪は玉子焼きを噛んだ。

甘い。出汁が効いている。

さっきの産声と、なぜか繋がってしまう。

「雪下」

「はい」

「主君を選べるなら……どうする」

雪下は酒を見つめ、しばらく黙った。

そして、ほんの少しだけ笑ってしまった。

「狂犬でしょうな」

道雪も、同じ結論に辿り着くのが悔しかった。

「……同じか」

二人の間に、切ない沈黙が落ちる。

忠義という鎧は、厚い。だが、今日の門司の光景は、その鎧の内側を温めてしまった。

雪下が、ぽつり。

「最初は良い主君でした」

「……ああ」

「大友の重圧か。南蛮かぶれか。いまではデウスがどうの、と」

「口にするな。頭が痛くなる」

道雪は杯を干す。

自分に厳しく、敵に恐ろしく、家臣を大事にする――それで通ってきた。

だが今日は、居酒屋で、卵焼きを食べながら、主君の行く先を心配している。

なんとも情けない。

そのとき、背後の卓から声が飛んだ。

「坊さん! 説法せえや! 今日、赤子生まれたんやろ! ありがたい話、ひとつ!」

「そうそう、狂犬様の話でもええぞ!」

雪下が肩をすくめ、道雪を見る。

道雪は、ゆっくり振り向いた。

「……説法は苦手だ」

客が笑う。

「坊さんやのに!」

道雪は、杯を置き、静かに言った。

「今日、ここで子が生まれた。

人は戦で死ぬ。だが、戦の中でも命は増える。

それを“当たり前”にしている町は、強い」

一瞬、店が静かになる。

次いで、誰かが言った。

「……それ、ええな」

「乾杯や!」

笑い声が戻り、酒が注がれる。

雪下が、小声で囁く。

「殿……いまの、うっかり名将の言葉でしたわ」

「黙れ」

道雪は、もう一切れ玉子焼きを食べた。

切ない酒は、まだ続く。

祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬)

門司の夜に「狂犬病」って看板、あかんやろ……って思うけど、繁盛しすぎて誰も突っ込まへん。

突っ込んだら負け、みたいな空気。

道雪さまと雪下さま、僧侶の格好で酒飲んで玉子焼き食べてはった。

生臭坊主って、こういうことか。

でも二人とも、今日の出産のことを思い出してる顔やった。

涙の匂いが、まだ残ってるみたいな。

「主君を選べるなら狂犬」

……って、二人とも同じ結論に行きそうになって、そこで黙ってもうた。

忠義って、重い。

でも、門司の町はあったかい。

あったかいのが一番怖い、って顔してはった。

母上は、きっと知ってる。

知ってて、殺さん。

殺さんで、崩す。

……ほんま、狂犬。

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