第322話 産声は海峡を越える
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春 門司・団子屋前)
団子屋の座敷は、もはや甘味の間ではなかった。
畳は拭き清められ、湯気が立ち、白布が並ぶ。
外では潮風が鳴り、内では女の呼吸が波のように寄せては返す。
道雪と雪下は、障子際に控えていた。
武の道で名を馳せた二人が、今はただ、見守る側である。
妊婦・梅は汗に濡れ、歯を食いしばっていた。
お市はその額を拭きながら、低く、しかし力強く言う。
「梅、息じゃ。吸うな、吐け。ひっひっふーじゃ」
「ひ、ひっ……ふー……」
「違う、吐くほうを長く。ひっひっふー!」
「ひっ……ひっ……ふーっ!」
産婆の一人が股間に手を添え、もう一人が肩を支え、三人目が腹を撫でる。
役割は無言で分担されている。
「頭が見えたぞ!」
「もうひといきじゃ、梅! 子は頑張っておる!」
「お母さん、押せるときに押すんよ!」
お市は産婆と目を合わせ、わずかに頷く。
その連携は、戦場での騎馬突撃と変わらぬ精度だった。
「いまじゃ。梅、押せ!」
梅が叫ぶ。
その声は、泣き声にも祈りにも似ていた。
――おぎゃあ。
産声が、団子屋の梁を震わせた。
一瞬、時が止まる。
次いで、婆さんの笑い声。
「出たぞ、元気な男の子じゃ!」
外で待っていた夫が、へたり込む。
「……梅……!」
道雪は、知らぬうちに目を覆っていた。
指の隙間から、涙が落ちる。
雪下もまた、鼻をすすっている。
「……命が、増えた」
道雪が、ぽつりと言う。
雪下は低く応じた。
「戦で何百と失うのに、ひとつ増えるだけで……胸が詰まる」
お市は産声を聞きながら、へその緒を処理し、赤子を布で包む。
血と汗の匂いの中で、笑った。
「梅、勝ったな」
梅は泣きながら頷く。
「……はい……」
「子は泣く。肺が強い証じゃ。よい子じゃ」
お市は赤子を掲げ、皆に見せる。
団子屋の女将が、両手を合わせた。
「ありがたい……ありがたい……」
瑠璃姫は震える手で記録を書き続ける。
徳姫は赤子の体温を確認し、真理姫は梅の脈を測る。
さくらとあやめは布を片付け、湯を替え、動線を整える。
戦場の撤収と、まったく同じ速さだ。
道雪は、己の胸に手を当てた。
「……奇天烈宗麟様に仕える身としては、涙など……」
「泣け」
雪下が即答する。
「泣けぬほうが危うい」
お市が振り向く。
「どうした、雷神。顔が崩れておるぞ」
「……初めて見た」
「何をじゃ」
「大名が、命の産まれる場で、陣頭に立つところを」
お市は肩をすくめる。
「戦も出産も、同じじゃ。命を賭ける。
違うのは――増えるか減るか、それだけよ」
道雪は言葉を失う。
団子屋の外では、甘味通りに再びざわめきが戻る。
人足たちが赤子の誕生を伝え、誰かが団子を振る舞い始める。
「祝いじゃ!」
「狂犬様が取り上げた子だ!」
雪下は苦笑する。
「……敵地に来たはずが、祭りの中にいる」
お市は梅に飴を一つ差し出す。
「これ、舐めよ。さとうきび砂糖じゃ。
戦のあとは、甘いものじゃ」
梅は涙を流しながら笑った。
道雪は、静かに畳に手をついた。
「……狂犬殿」
「なんじゃ」
「戦国に、命に向き合う大名がいるとは思わなんだ」
「見たであろ。これがわらわの戦じゃ」
雪下が小声で言う。
「殿……これを敵に回すか」
道雪は答えなかった。
ただ、赤子の小さな手が空を掴むのを見ていた。
海峡の潮は速い。
だが、この産声は、海を越えて広がるだろう。
戦国のただ中で、命がひとつ増えた。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬)
今日、団子屋で男の子が生まれた。
母上の声は戦の号令みたいやった。
「ひっひっふー!」
って、真顔で言うから、ちょっと面白いのに、誰も笑わへん。
産声が上がった瞬間、空気が変わった。
雷神さま、泣いてた。
雪下さまも、目が赤い。
戦で命を奪う人が、命を迎えるのを見る。
なんか、世の中の裏表を一気に見た気分。
母上は言った。
「戦も出産も同じ。違うのは増えるか減るか」
この言葉、忘れへんと思う。
今日の門司は甘い匂いと涙の匂い。
団子屋前は、戦場やった。
でも、勝った戦やった。




