第321話 団子屋前、産声――女の戦、狂犬の采配
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春 門司、潮風と黄砂)
門司の無料診療所は、いましがたまで“雷神解体戦”の後始末をしていた。
縫合された背の包帯を、瑠璃姫が丁寧に消毒している。
真理姫は薬湯を湯気立つ椀に注ぎ、道雪――いや、僧侶「道雪」に手渡した。
「温い。……苦いな」
「苦いのが薬です。甘いのは飴です」
真理姫の返しに、道雪が鼻で笑う。
雪下はその光景を、腕を組んで見ていた。
雷神が布に包まれて大人しくしているだけで、今日は妙に平和だ――そう思った、その瞬間。
「急患だ! 急患だぁっ!」
港町の人足が、戸を蹴破る勢いで飛び込んできた。
顔面蒼白、汗だく。さっき妊婦に寄り添っていた男だ。
「嫁が……! 赤ん坊が……! もう、出る、出るって……!」
「場所は」
白衣の狂犬お市が、声だけで場を制圧する。目が笑ってない。
「団子屋前です! 座敷で、破水して――」
お市は即断した。
「さくら、あやめ。産婆を背負え。走るぞ」
「はい!」
「了解です!」
お市は振り向きざまに雪下へ指を突きつける。
「雪下殿。走れるな?」
「……走れる」
「なら産婆を背負え。重いぞ。逃げるなよ」
「逃げぬ」
瑠璃、真理、徳にも矢継ぎ早だ。
「瑠璃、消毒と布。徳、薬と糸。真理、湯と清い水! 出産道具一式じゃ!」
「はいっ!」
「了解です、母上!」
「湯、先に立てます!」
診療所の戸が一斉に開く。
白衣の一団が、門司の通りへ雪崩れ込む。
――そして。
「……置いていくのか」
包帯だらけの道雪が、ぽつり。
最後に残っていた産婆の婆さんが、道雪の前までずいっと来た。
「坊主。おんぶじゃ」
「……は?」
「口より背ぇ貸せ。走れ」
雷神、固まる。
「わ、わしは術後――」
「術後でも人は産まれる。ほら、しゃがめ!」
瑠璃姫が一瞬だけ振り返り、にっこりした。
「道雪さま、頑張ってください。命を助ける側ですよ」
「……っ」
道雪、腹を括る。
婆さんを背負い、のし、と立ち上がった。
「……重い」
「余計なこと言わんで走れ!」
こうして、鎮西無双は――産婆輸送係になった。
団子屋前は、普段なら甘味の匂いで満ちる場所だ。
だが今は違う。
座敷から女のうめき声。
男のうろたえ声。
近所の野次馬が集まりかけて、ざわついている。
お市は到着するなり、低い声で言い放った。
「人を寄せるな!」
風魔の隠密同心が、すっと前に出て通りを切った。
「ここから先は病の場。下がれい」
団子屋の女将が泣きそうな顔で頭を下げる。
「す、すみません……! うちの座敷で……!」
「謝るな。湯を沸かせ。清い水、桶。布、できるだけ白いの。灯りを増やせ」
「は、はいっ!」
瑠璃姫たちは台所に滑り込み、湯を回し、布を煮沸し、手を洗い、道具を整える。
真理姫は湯気の向こうで、息を整えながらも手を止めない。
徳姫は薬箱を開き、糸と針と薬草を確認し、黙って頷く。
さくらとあやめは、桶と布を運びつつ、カルテ用の紙と墨まで持ってきていた。
「姉者、記録は任せて」
「了解。時間、破水、脈、全部書く」
座敷では三人の産婆が妊婦に寄り添い、声を掛け続けている。
妊婦は汗に濡れ、髪が額に貼りつき、目に涙が溜まっている。
「大丈夫、大丈夫……息を、吐くんよ」
「そう、背中丸めて……ほら、今は休める」
「手ぇ握ってええ。怖いの、当たり前や」
お市は膝をつき、妊婦の手を取った。
その手つきは――戦の指揮官ではなく、医師のそれだ。
「名を言え」
「……お、梅です……」
「梅。今から“女の戦”じゃ。怖いか?」
梅は震えながら頷く。
「こ、怖い……死ぬかと思う……」
「死なぬ。わらわがおる。婆さまがおる。姫がおる。――戦は数じゃ。味方が多いほど勝つ」
妊婦の目が揺れた。
涙が落ちる。
外で、人足――夫が声を上げそうになる。
「梅ぇ――!」
お市が障子越しに怒鳴った。
「男は黙れ! 女の戦ぞ!」
ぴたり、と静まる。
次いで、団子屋の外で「はい……」と弱々しい返事が聞こえた。
雪下が、座敷の入り口で一礼した。
「外は抑えた。湯も整った」
「よし。雪下殿、布と湯を運べ。……ただし、ここから先は手を出すな。命令待ち」
「承知」
そして遅れて、道雪が産婆を背負ったまま現れる。
息が荒い。背中は包帯だらけだ。
「……運んだぞ……」
「偉い。雷神、役に立つの」
お市が一瞬だけ笑う。
道雪は言い返す気力がない。
婆さんが背中から降りながら、勝ち誇った顔をした。
「坊主、足腰まだ使えるやん」
座敷の空気が、さらに濃くなる。
産気が強くなる合図だ。
お市は声を張る。だが、乱暴ではない。芯がある。
「湯! 布! 手を洗え! 瑠璃、徳、真理――手順は覚えておるな!」
「はい!」
「はい!」
「はいっ!」
「さくら、あやめ、記録。時間を刻め。人は命の記録で救われる」
「承知!」
「任せてください!」
そして、お市は梅の耳元で言った。
「梅。息を吐け。今から、勝ちにいくぞ」
梅は泣きながら、頷いた。
障子の外で、潮風が鳴る。
門司の町は今日も賑わう。
だが、この座敷だけは、戦国のど真ん中だ。
――女の戦。
狂犬の采配。
そして、もうすぐ産声が上がる。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬)
今日、門司は二回戦やった。
一回戦:雷神の背中を切る。
二回戦:団子屋で赤子を迎える。
急患の人足さんが飛び込んできた瞬間、母上の目が“戦”になった。
指示が速すぎて、みんな体が勝手に動いてた。
雪下さん、産婆背負って走った。
そして……道雪さん。術後なのに産婆おんぶ。
雷神、運搬係。歴史、変わってる。
母上が言った。
「女の戦ぞ。男は黙れ」
あれで空気が一つになった。
梅さんの手を握る母上の顔は、狂犬じゃなくて医師やった。
でも言葉は戦国。
「戦は数。味方が多いほど勝つ」
その言い方、ずるい。泣く。
……産声が上がる瞬間、私はまた、息を止めそう。
今日は“命が増える日”。
刀より、たぶん、こっちのほうが怖い。




