第320話 白衣の狂犬、雷神を裂く――門司診療所・粉瘤戦役
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春・黄砂うすく霞む日)
門司の無料診療所は、その日、静かな緊張に包まれていた。
外では港の荷揚げが続き、洞海湾の船足は絶えぬ。
甲斐訛り、関東訛り、堺の商人言葉が飛び交い、町は銭の匂いで満ちている。
だが診療所の奥――即席の手術室は別世界だった。
「湯、よし。布、よし。薬湯、よし」
真理姫が声を張る。
瑠璃姫と徳姫は白衣を着込み、手を念入りに洗っていた。
さくらとあやめは煮沸した刃物を布で受け取り、深く息を吸う。
寝台に横たわるのは――僧侶道雪。
いや、鎮西無双・戸次鑑連。
上半身裸。
鍛え上げられた体躯は、雷神の異名に恥じぬ。
だが背には三つの異物。
首筋に小。
背に大。
そして肩甲骨の下に――特大。
特大の一つは赤く腫れ、明らかに炎症を起こしている。
「……まずは小からじゃ」
狂犬お市は静かに言った。
先ほどまで飴玉を投げ込んでいた女とは思えぬ声。
冷静。無駄がない。
まさに名医の顔。
「道雪。暴れるな。噛みつくな。怖がるな。さっき約束したの」
「……雷神を犬扱いするな」
「犬はわらわじゃ。お主はただの患者じゃ」
診療所の空気が、ぴしりと締まる。
刃が入る。
瑠璃姫が息を止め、徳姫が血を拭う。
さくらが膿袋を受け取る。
あやめが記録を書きつける。
小は、落ち着いていた。
皮膚下の嚢を丁寧に剥離し、袋ごと取り出す。
「ほれ、きれいに出た」
お市は弟子たちに見せる。
「袋を破るな。再発するぞ。医師は“根”を取るんじゃ」
真理姫が小さく頷く。
「根を残さぬ……戦と同じですね」
「うむ。中途半端は一番悪い」
小が終わる。
次は大。
こちらも比較的落ち着いている。
道雪は歯を食いしばるが、声は出さない。
鎮西無双の矜持か。
あるいは、狂犬に負けたくないだけか。
婆さんたちが小声で囁く。
「この坊主、強いな」
「泣かんのう」
「うちの亭主より根性あるわ」
雪下は、診療所の隅で腕を組んでいた。
主君が斬られているような気分だ。
いや、切られているのは確かに主君だ。
「次、特大じゃ」
お市の声が落ちる。
炎症を起こしている。
皮膚が赤く、熱を持っている。
「これはな……放っておいたら高熱、敗血、最悪は命を落とす」
「……ほう」
道雪は短く応じる。
「背を地につけて寝ぬから悪化する。武将の意地が身体を壊す」
「……武将ではない」
「ほう? ではただの頑固ジジイか」
瑠璃姫が吹きそうになる。
徳姫が必死にこらえる。
刃が入った瞬間、膿が押し出される。
「……ぬう」
道雪の喉から低い音が漏れた。
「暴れるなと言った」
「暴れておらぬ」
お市は淡々と膿を排出し、袋を探る。
炎症部位は癒着がある。
慎重に、しかし迷いなく。
「ここじゃ。……袋を、破らぬようにな」
真理姫が灯りを寄せる。
汗が額を伝う。
だが、お市の手は揺れない。
「取れた」
袋が、丸ごと、出る。
診療所の空気が一斉に緩んだ。
婆さんが「ほう」と唸る。
さくらとあやめが目を丸くする。
瑠璃姫が深く息を吐いた。
「……雷神、終わりじゃ」
お市は糸で縫合しながら言う。
「雷は落ちぬか?」
道雪が返す。
「落とすのはお主の役目じゃ。わらわは治す」
包帯が巻かれる。
湯で清拭し、薬を塗る。
道雪は静かに起き上がった。
目が、少しだけ柔らかい。
「……名医だな」
ぽつりと言った。
お市は鼻で笑う。
「世界一の美女で、名医で、狂犬じゃ。欲張りじゃろ?」
雪下が小さく呟く。
「……敵に回したくない」
外では、門司の鐘が鳴る。
港は今日も動く。
狂犬は軍だけでなく、医術でも城を落とす。
この日、鎮西無双は――白衣に斬られた。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬)
今日は門司診療所で“雷神解体戦”。
道雪殿の粉瘤除去。
小・大・特大の三連戦。
特大が炎症していて、母上が「放っといたら死ぬ」と断言。
母上、手が震えない。
袋を破るな、根を残すな、と何度も言う。
戦の話みたいに医術を語るの、ちょっと怖い。
特大を取った瞬間、診療所の空気が変わった。
みんな息をしてなかったらしい。
道雪殿、「名医だな」と言った。
母上、「世界一の美女で名医で狂犬じゃ」と返す。
……ほんまに欲張り。
雷神が、包帯巻いて静かに座ってる姿は、少しだけ人間らしかった。
雪下さんの顔が、今日一番複雑やった。
たぶん、次は自分やと思ってる。




