第319話 咳と水虫と、雷神の沈黙――無料診療所は戦場より怖い
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春)
門司の狂犬堂無料診療所は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。
港は人で溢れているのに、ここだけ潮の音が聞こえる。
戸次鑑連と由布惟信――今は僧形のまま、“道雪”“雪下”と名乗った二人は、草履の泥を落として中へ入った。
「おお、坊さま来はった。あっちの椅子、空いとるえ」
受付の隣の部屋から、煎餅をかじりながら声が飛ぶ。
三人の老婆が、四方山話に花を咲かせている。
ただの婆さんに見えるが、手の節と目が違う。産婆だ。
“命の入口”を何百と見てきた目は、戦場の武士より怖い。
受付の前では、真理姫、瑠璃姫、徳姫、さくら、あやめが、診療の片づけをしていた。
薬棚の瓶を拭き、包帯を畳み、板に挟んだ紙束――カルテを整える。
墨の匂い、乾いた薬草の匂い、少し甘い飴の匂いが混じる。
「……客がいない、だと?」
由布が小声で呟く。
鑑連は視線だけ動かした。
「だからこそ、見られる」
受付のさくらが、背筋を伸ばして声を出した。
「お名前を」
僧形の二人は、自然に口を揃える。
「僧侶、道雪」
「僧侶、雪下」
その瞬間だった。
診療台のそばで白衣の袖を整えていた狂犬お市が、ぴたりと動きを止めた。
それから――にやにや、とても嫌な笑みを浮かべた。
「……道雪。雪下」
お市は、まるで飴を口に入れた子供みたいに、楽しそうに言う。
「へぇ。なるほどの。坊主ってのは、名が立派じゃ」
由布(雪下)が、背中に冷汗を感じた。
鑑連(道雪)は、表情を変えない。変えないが、眉間の奥がわずかに動く。
――名を聞いた瞬間の“反応”は、罠の気配そのものだった。
「ほれ。今日は客が少ない。順に診てやる」
お市は手を叩き、椅子を指した。
「雪下、先じゃ。座れ」
由布は座った。
白衣の女が目の前に来るだけで、空気が変わる。
距離が近い。近いのに、刃が届かない壁がある。
お市は手際が妙に良い。
脈を取る指は冷たく、しかし迷いがない。
「脈――悪くない。目、開け。……うん。充血は少し」
喉を覗き込み、鼻先で息を感じ、胸に聴診器を当てる。
心音、肺の音。
額に手のひらを当てて熱を測る仕草は、母親みたいに自然だった。
由布は、思わず視線を逸らした。
困っているのは――あなたの美貌だ、なんて口に出したら、その場で解剖される気がした。
「困ったことは?」
お市が訊く。
由布は一瞬だけ迷い、腹を括った。
「……最近、咳が出る」
「ふむ」
「それと、脚が……痒い」
真理姫が、ぴくっと肩を跳ねた。
瑠璃姫は口元を押さえ、徳姫は薬鉢を握り直した。
さくらとあやめは、目で会話している。
“来たな”という目だ。
お市は、あっさり言い切った。
「喉が赤い。炎症じゃな。西国は黄砂が吹く。咳はそれじゃ」
指をすっと動かし、紙にさらさらと書く。
「葛根湯、四日分」
一拍おいて、脚を見もしないのに頷いた。
「足の痒みは水虫じゃ。塗り薬、出しとく」
由布は固まった。
「……み、見ずに?」
お市はにやり。
「坊主の足はだいたい水虫。寺は湿るからの。ついでに言うと、お主、足袋を乾かしてない。――だろ?」
由布が、言葉を失う。
産婆の婆さんが、煎餅をぱりんと割って笑った。
「当てられてるやん、坊さん」
「ほれ見ぃ。顔が真っ赤や」
鑑連が咳払いを一つ。
「診断が早い」
「戦国で遅い医者は死ぬ」
お市はさらっと返し、処方箋を机に置く。
「さくら。大福帳」
「はいっ」
「真理、薬の刻み」
「はいっ」
「瑠璃、徳、煎じの段取り。雪下は四日、様子見る。熱が上がったら来い」
「はい……!」
弟子たちは一斉に動いた。
帳面に書き込み、薬を秤にかけ、薬草を“ごりごり”とすり潰す音が診療所に満ちる。
その段取りが、兵站と同じ速度だ。
鑑連はそれを見て、静かに息を吐いた。
ここは診療所だ。
だが――戦場より怖い。
お市が、ふっと顔を上げて鑑連を見た。
「次。道雪」
にやにやが、また始まる。
「お主は……咳より厄介そうじゃな。腹、割って話せ」
「腹は割らぬ」
鑑連が言い、由布が慌てて割って入る。
「殿、いえ道雪殿、比喩です!」
婆さんがまた笑う。
「割ったら血ぃ出るわ」
「ここ無料やけど、血は高いでぇ」
お市は肩をすくめ、椅子を指した。
「座れ。――無料なら、診てもらうんじゃろ?」
鑑連は、黙って座った。
そして心の奥で確信する。
この女は、ただの“狂犬”ではない。
医師の手で、国を噛み替えるつもりだ。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬/晴れ)
今日、診療所に僧侶が二人来た。
名乗りが「道雪」「雪下」。……その瞬間、母上がにやにやした。怖い。
“名を聞いて笑う医者”って何。診療所やで?ほんまに。
患者さんがたまたま少なくて、うちらは片付けとカルテ整理してた。
産婆の婆さまたちが煎餅食べながら受付の横で雑談してて、空気は平和――のはずやった。
雪下(大柄の僧)が「咳」と「脚が痒い」を言うた瞬間、真理姫さまがピクッてなった。
うん、わかる。水虫は言いにくい。
でも母上は秒で診断した。
「坊主の足はだいたい水虫。寺は湿るから」って。偏見強い。けど当たってそうなのが嫌。
葛根湯四日分と塗り薬。
弟子一同、帳簿と薬の準備で大忙し。
診療所の段取り、軍議と同じ速度で回るから、敵が来ても普通に“押し負ける”気がする。
で、次が道雪。
母上のにやにやが止まらん。
私はもう、嫌な予感しかしない。




