第318話 無料なら、診てもらうか――白衣の天女と、雷神の腹の底
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春)
関門の港町は、昼でも“夜みたいに忙しい”。
門司の通りを歩く僧侶二人――戸次鑑連と由布惟信――の耳に、銭勘定の声が絶えず刺さる。
だが、賑わいは“銭”だけではなかった。
団子屋を出て、二人は町を散策した。
潮の匂いが薄れる路地に入ると、そこは寺町通り。石畳はまだ新しい。
辻では、老僧が声を張って辻説法をしている。
「――盗むな、欺くな、と言うがの。腹が減れば人は盗む。ならば腹を減らさぬ国を作れ。腹を満たせば、刃は鞘に戻るぞ」
道行く商人も、武士も、足を止めている。
“説法”が、ただの念仏ではない。生活の話だ。治安の話だ。腹の話だ。
鑑連が、口の端だけ動かす。
「坊主が、政を語る」
由布が肩をすくめた。
「政が坊主になったのかもしれん」
寺町通りの奥には、小さな草庵が点々と建っていた。
雨風をしのげる程度の粗末なものだが、戸はきちんと直され、板壁に白い漆喰が薄く塗られている。
その前で、子供らが若い僧の手を引いて笑っている。
「せんせー! “たしざん”できた!」
「よし、見せてみい。――お、ようできたな。ほな次は“引く”や」
草庵の中では、別の僧が真剣な顔で字を教えている。
墨の匂い。紙の音。
寺子屋だ。港町の寺子屋。しかも、無料に見える。
由布が低く言った。
「……寺が、増えたのではないな。学びが、増えた」
鑑連は目を細める。
「学びは、兵になる。兵は、国になる」
二人は歩きながら、門司の町を“敵地”として観察していた。
旗の多さ、倉の数、道の整え方。
奉行所の札の位置。狼煙台の見える角度。
そして――港の裏で動く人間の数。
「狂犬堂門司商館……ここか」
鑑連が、建物を見上げる。
門司城に連なる商館。
門を守る者の足取りが軽い。目がよく動く。
――隠密の配置が、町の呼吸と同じ速さだ。
「敵の拠点、というより……町の心臓だな」
由布が、ぼそりと漏らした瞬間。
隣の建物から、人が出てきた。
白衣。
光を吸うような白。
そして――あり得ぬほどの美貌。
春の陽に照らされて、髪が艶を返す。
顔立ちは華やかで、それでいて目は冷たいほど静か。
近寄りがたいのに、近寄りたくなる。
“天女”と言われたら信じる者が出る、そんな女が――妊婦に寄り添っていた。
「大丈夫じゃ。息を、長く。ほれ、飴じゃ」
女は、妊婦の手を包むように握り、薬袋を渡し、飴玉を一つ、口に入れてやった。
妊婦が、泣きそうな顔で頷く。
「……ありがとうございます……」
「礼などいらぬ。生きて帰れ。子も生きろ。――それだけじゃ」
鑑連の喉が、小さく鳴った。
由布が横目で見て、囁く。
「……あれが、噂の狂犬か」
「……狂犬が、飴を配るのか」
鑑連の声は平坦だが、目だけが鋭い。
無料診療所――そう看板が出ている。
“無料”の文字が、やけに大きい。
そして、その“無料”を看板にできるだけの仕組みが、この町にはある。
妊婦が去ると、白衣の女が顔を上げた。
視線が、僧侶二人を捉える。
空気が、すっと冷える。
由布は反射で背筋を伸ばした。
鑑連は、動かない。顎に手を当てたまま。
白衣の女が、にこりと笑う。
その笑みが“優しい”のに、“獲物を見つけた”みたいなのが怖い。
「お坊さま。団子は食うたか?」
由布が詰まる。
「……な、何故それを」
「甘味通りは、わらわの目の届く範囲じゃ。腹が減っては説法も軍議もできぬからの」
鑑連が、名乗らぬまま言う。
「無料なら、診てもらえるのか」
「もちろんじゃ。――無料診療所じゃからの」
白衣の女は、あっさり言い切る。
由布が小声で突っ込む。
「……危険だ、殿」
鑑連は、目を離さず答える。
「無料は、罠の匂いがする」
白衣の女が、聞こえたかのように笑う。
「罠でもよいぞ。入るか、帰るか。選ぶのは自由じゃ。――ただし」
一歩、近づく。
「この町は、刃を抜くと損をする。銭が逃げるからの。損は嫌いじゃろ?」
由布の喉が鳴る。
鑑連は、静かに頷いた。
「……損は嫌いだ」
白衣の女が、手を横に払う。
「よし。入れ。まずは脈を取る。次に腹を見て、次に目を見て――最後に心を診る」
「心、まで?」
由布が思わず聞く。
「戦国で一番腐るのは、腹でも刃でもない。――心じゃ」
二人は、診療所の戸をくぐった。
無料ならば、と足が動いた――その瞬間、由布は遅れて気づく。
これは診療ではない。
“見定め”だ。
そして、その見定めをする女が、狂犬お市だということを。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬/晴れ)
門司の寺町通り、最近ほんとに変。
草庵が増えて、子供が増えて、なぜか足が速い僧が増えた。
僧って、そんなに走る生き物やったっけ。
で、その“走る僧”が二人、今日、診療所に入ってきた。
黒い。でかい。頭がつるつる。視線が痛い。
団子食べた顔してるのが、逆に怖い。
母上(狂犬お市様)は、妊婦さんに飴をあげてた。
最近あの飴、ほんと人気。
私は医療班として誇らしい。けど、母上が飴を作る動機が「医療に使えぬか?」なのに、だいたい“おやつ”として消えていくの、どうかと思う。
あと母上、僧二人に言ってた。
「まず脈、次に腹、次に目、最後に心」って。
心まで診るの、やめてほしい。
診たら、たぶん――母上、面白がって拾うから。
私はもう、嫌な予感しかしない。




