第317話 甘味通りに雷神おちる――団子と帳簿と、狂犬の銭の匂い
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春)
風師山の尾根で見た関門は、遠くからでも“整って”いた。
だが――山を降りた瞬間、二人の僧は理解する。
整っているのではない。
“回っている”のだ。
門司の港町。潮の匂いに混ざって、汗と米糠と、干物と、炭の匂い。
そして――銭の匂い。
蔵へ荷を運ぶ人足の列が、蛇のように長い。
肩に縄、背に俵、息は荒いのに足は止めない。
道の端では商人が帳簿を抱え、走り回っている。木札を鳴らし、数字を叫び、指で空をなぞって「利」を計算している。
「……港が、戦をしているみたいだな」
由布惟信が、ぽつりと漏らした。
戸次鑑連は答えず、目だけで“音”を拾う。
耳に入ってくる訛りが、門司のそれではない。
甲斐訛り。
相模訛り。
越後の硬さ。
尾張の軽さ。
武士も商人も、値段交渉をしている。
刀を差したまま「高い」と言い、商人が笑って「なら、まとめて買え」と返す。
殺気がない。代わりに、執念がある。――銭への執念だ。
鑑連が顎を撫でる。
「……戦より怖い光景だな」
「腹が満ちると、刃が鈍る。だが、腹が満ちると“欲”は増える」
由布が、うっすら笑う。
「欲は、刃より長生きする」
通りの角で、二人は足を止めた。
看板がある。
甘味通り
――甘味通り、だと?
通り一帯が、明らかに“甘い”。
湯気の匂いが違う。
焼き砂糖の香り。蒸した餅米。小豆の甘煮。
この時代の甘味は貴重で、寺と公家と大商人のもの――その常識が、ここでは崩れていた。
「狂犬印団子屋」
「今川焼」
「獅子饅頭」
「羊羹 虎屋」
鑑連と由布が、同時に黙る。
旗が混じっている。味まで混じっている。
しかも喧嘩していない。
由布が、ぼそっと言った。
「……北条の獅子と、武田の虎と、狂犬の印が同じ通りに並ぶのか」
鑑連は短く答える。
「並べたのだ。意図して」
二人は、通りの真ん中の団子屋に入った。
暖簾には大きく“狂犬印”の焼き印。
しかし内装は質素で清潔、板間は磨かれ、湯気の上がる釜は手入れが行き届いている。
僧が二人座ると、女将がすぐ湯呑みを出した。
熱い茶の香りが、鼻にすっと通る。
「いらっしゃい。お坊さま、団子は何本にしはります?」
女将の言葉は柔らかい。だが目は商人のそれだ。――値を測る目。
由布が、つい聞き返した。
「……この辺り、やけに賑わっておるな」
女将は団子を返しながら、当たり前の顔で言った。
「そら、狂犬様が来てからですわ」
鑑連の眉が、ほんの少し動く。
「“狂犬様”と呼ぶのか」
「呼びますえ。うちは命拾いしましたさかい」
女将は串を並べ、手際よくタレを塗る。
「前は、海賊と役人と地侍が、関銭やら“通り賃”やら、好き放題取りよった。払えん家は、娘売るか、男が海に出て死ぬか。――そんなん、よう見てきました」
由布が、低い声で問う。
「それが、どう変わった」
女将は、団子を焼く手を止めずに言う。
「まず“札”が統一されました。港の札、倉の札、運びの札。勝手に取ったら奉行所が来よる。覆面の……」
女将が少し声を落とす。
「目ぇだけ綺麗な女の人、いますやろ?」
由布が咳払いをした。
鑑連は、何も言わず茶を啜った。
女将は楽しそうに続ける。
「奉行様(氏規さま)も、ようやってくれはります。けど、あの奉行補佐は怖い。笑わんし、歩く音が消えるし。なのに、口紅だけは綺麗。――ほんま、何なんです?」
「……それが“治安”だ」
鑑連が、ぼそりと言う。
女将は頷いた。
「そやから、商人も来ます。甲斐の人も関東の人も。値段交渉? そらしますえ。けど最後は、みんな笑う。港が安全やと、次も来るさかい。そしたら、うちらも食べていける」
団子が来た。
艶のあるタレ。きな粉。胡麻。
砂糖の甘みが、喉の奥でふっとほどける。
由布が、思わず本音を漏らした。
「……甘いな。嫌になるほど」
女将が笑った。
「嫌になったら、もう一本どうぞ。甘味は、戦に勝つ薬やて、狂犬様が言うてはりました」
鑑連の目が、店の外へ向く。
通りの向こうで、帳簿を抱えた若い商人が、武士に頭を下げ、武士が頭を下げ返している。
その横を、荷担ぎの人足が、歌のように掛け声を合わせて通る。
銭が回る。
労が回る。
噂が回る。
「……山で見た“仕組み”が、ここで“血”になっている」
鑑連が呟く。
由布は団子を噛み切り、苦く笑った。
「殿の命令に自信がない? そりゃそうだ。……これを壊して勝っても、勝った気がせん」
女将が、最後に釘を刺すように言った。
「お坊さま。ここで悪さしたら、港の風が変わりますえ。風が変わったら、銭が逃げます。銭が逃げたら、みんな困ります。――狂犬様は、そういうの、一番嫌いです」
鑑連は湯呑みを置いた。
「……良い話を聞いた」
女将が、にこっと笑う。
「お代は、二人で六文です。坊さん割引、しときます」
由布が吹き出しそうになった。
「僧の割引がある港町、初めて見た」
鑑連は真顔のまま、六文を置く。
「この港は、何でも制度にする。割引すら、制度だ」
外に出ると、甘味通りの看板が風に揺れていた。
その揺れ方が、旗の揺れ方と同じに見えて、鑑連は一瞬だけ目を細めた。
雷神は思う。
この関門は、城ではない。
軍でもない。
――“暮らし”が砦になっている。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬/晴れ)
門司の甘味通り、今日も人が多い。
私は診療所の帰りに通ったけど、団子の匂いで意識が持っていかれそうになった。
医療班なのに。意志が弱い。
あと、僧が二人いた。
なんか……足が早い。やたら黒い。頭がつるつる。
「修行の僧」って顔じゃない。
「修羅の僧」って顔。
団子屋の女将さんが、普通に話しかけてた。強い。門司の商人は強い。
狂犬母上が来てから、港の札が揃って、勝手に関銭取れなくなって、奉行所が動くようになったって。
私は“治安”とか“札”とか、難しいのはよく分からないけど――
人が、笑って買い物してるのは分かる。
刀差したまま値切って、商人が笑って、最後に頭下げ合うの、変だけど、いい光景。
ただ、母上。
お願い。
あの僧二人に「見学のお礼」って言って、頭に的を乗せないで。
甘味通りの団子屋が、戦場になるから。
それだけは、ほんまにやめて。




