第316話 雷神、風師の尾根に立つ――見えぬ網と、轟く稽古
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春)
僧が二人、異様に速かった。
速い、というより――脚が“鍛えられている”速さだ。
足立山から尾根をつなぎ、息を乱さず縦走していく。
門司と下関の間を、風が抜ける。潮の匂いが上がってくる。
やがて、さらに見晴らしの利く風師山のあたりまで来たとき、二人は同時に足を止めた。
「……入ったな」
閻魔の顔をした僧――戸次鑑連が、小さく言う。
隣の大柄な僧――由布惟信も頷いた。
「入った。敵の警戒網だ」
そう言ったのに、何も起きない。
笛も鳴らない。矢も飛ばない。足音ひとつ増えない。
由布が、思わず吐き捨てるように笑う。
「……わしなら狩るが」
鑑連は顎を撫で、彦島を見たまま答える。
「狩らせぬ、のだろう。狩れば、こちらが“来た”と確定する。――狂犬は、確定を嫌う」
二人の視界に、彦島が広がっていた。
旗が、風に鳴っている。
狂犬旗。
毘の旗。
武田菱。
北条の旗。
織田の旗。
大内の花菱。
――混ぜるには危険すぎる旗が、同じ潮に揺れている。
それが一番、気持ちが悪い。
海峡は相変わらず船が多い。
ただ、船着き場の“質”が違う。
安宅船、関船。重くて強い船が目立つ。
荷を運ぶための船というより、「守る」ための船だ。
由布が目を細めた。
「あの量……港の顔が変わったな」
鑑連は淡々と答える。
「倉と関銭を守る顔だ。港は銭を生む。銭は戦を呼ぶ。戦は港を狙う」
そのときだった。
――ドン、ドン、ドドン。
轟音が、風師山にまで届いた。
由布が一瞬だけ眉を動かす。
「火縄銃か」
「……いや、数が多い」
鑑連の声が、わずかに低くなる。
彦島の一角。塀が見える。
“塀”というより、小さな土塁に近い。
その内側に――隊列があった。
「四百……規模か?」
由布が数える。
「四百が、塀の内で一斉射か。普通は見せない。耳が慣れるまで、民が嫌がる。……それを、あえてやる」
轟音は一定の間隔で続き、やがて止む。
止んだと思ったら、また始まる。
誰かが号令をかけているのが、遠いのに分かる。
鑑連が、ふっと口元を上げた。
「……良い稽古だ」
「褒めるのかよ」
「褒める。敵の稽古は、敵の弱点でもある。だが――」
鑑連は、彦島から火ノ山へ視線を滑らせる。
火ノ山には、雑賀の旗。
門司の和布刈には、根来の旗。
「鉄砲は雑賀、火薬は根来。旗を分けて、役目を分けている。責任の所在が明確だ。――それは統治の形だ」
由布が舌打ちする。
「統治の形、ねぇ……戦の形じゃなくてか」
「戦は、統治の延長だ。孫子に曰く――」
鑑連が静かに言う。
「『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む』」
由布が、即座に受けた。
「『敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む』……か」
由布は、彦島の塀内の隊列を見つめたまま、ぼそりと続ける。
「狂犬は、先に“勝った形”を作ってから戦ってる。港と治安と銭の巡り……」
鑑連は頷く。
「だから警戒網も“音”がない。矢もない。血もない。見張りはいる。だが、見張りが“見張りに見えぬ”」
由布が眉を寄せる。
「……つまり、今この山にも、誰かいる?」
鑑連は、空を見て言った。
「いるだろうな。だが、姿を見せぬ。こちらが僧だから、狩らぬ。狩れば噂になる。噂は銭の邪魔になる。――狂犬は噂を操るが、港を汚す噂は嫌う」
由布が喉を鳴らして笑った。
「矛で殺すより、港で縛るってか」
「縛るのは港ではない。人の腹だ」
鑑連の声が、急に優しくなる。
「腹が満ちれば、恨みは薄れる。薄れた恨みは、刃を鈍らせる。――それが恐ろしい」
由布は、ふと真面目な顔で言った。
「鑑連さま。俺たち、ここまで来て、何を持ち帰る?」
鑑連は顎に手を当てたまま、短く答えた。
「“攻める”か“攻めぬ”かではない。――“どう攻めれば港が死なぬか”だ」
「港を殺さずに、城を取る」
「それが出来ぬなら、攻めるべきではない」
由布が、苦い顔で吐き捨てた。
「面倒くせぇ敵だな」
鑑連は、閻魔の顔のままニヤリと笑った。
「面倒な敵は、価値がある。――学べるからな」
遠く、また火縄銃が鳴った。
塀の内側で、四百の鉄砲が揃って吠える。
潮が揺れ、旗が鳴る。
雷神は、風師山の尾根で、ひとつ確信した。
狂犬の関門は、城ではない。
“仕組み”そのものだ。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬/晴れ)
今日、風師山のほうに僧が二人いる、と噂が回った。
噂って、ほんと早い。潮より早い。私の胃より早い。
でも、誰も捕まえない。
捕まえないで“見せる”。
……母上(狂犬お市さま)は、そういうのが大好きだ。
彦島の鉄砲稽古、塀の中で四百。
音が、山まで届く。
患者さんが驚くから、私は嫌なんだけど、母上は「耳も鍛えろ」って言う。
医者なのに、耳を鍛える方向が戦場。
火ノ山に雑賀の旗。和布刈に根来の旗。
旗が分かれてるのが、なんか“怖い”。
遊びじゃなくて、役割が決まってるって感じがするから。
それにしても――
敵の警戒網に入ったはずなのに、何も起きないって、逆に怖い。
見られてるのに、見られてないふりをされるの、いちばん怖い。
お願いだから、母上。
明日は“見学のお礼”とか言って、僧の頭に的を乗せないでね。
雷神さま、閻魔顔だし。洒落にならないから。




