第315話 雷神、潮目を読む――足立山、孫子の問答
西暦1556年4月8日(弘治二年・卯月下旬/春)
門司の背骨みたいな山がある。足立山。
古い古い話では、和気清麻呂の名がこのあたりに残っている――と港の年寄りは言う。
だが今の門司で人が震えるのは、古代の伝説じゃない。
関門海峡の潮目が変わった、その現実だ。
海峡の向こう――彦島、下関、門司。
白壁が増え、倉が立ち、灯台と狼煙台が整い、港が“働く顔”になっている。
関銭と倉庫と治安と裁き。
銭が巡り、物が巡り、人が巡る。
しかも、その巡り方が速い。
足立山の頂に、僧侶の姿をした二人の男が立っていた。
ひとりは「殿」と呼ばれる大柄な男。
頭が藤吉郎みたいにつるつるぴかぴかで、日に焼けた顔は真っ黒。
もうひとりが主――編み笠を外すと、こちらも頭はつるつるぴかぴか。
日焼けで黒いのに、顔つきは閻魔さまそのもの。顎に手を当て、海峡を睨んで考え込む。
僧はぽつりと漏らした。
「狂犬は、軍も早いが……銭はさらに早い。町並みが、もう“戦の後”の顔ではない」
殿が肩をすくめる。
「放置か、主君の言う通り攻め取るか。……毛利元就は撃ち取られた、って話だろ」
「“撃ち取られた”という噂ほど、当てにならぬものもない」
「なら尚さらだ。今のうちに踏むか、様子を見るか、だ」
閻魔のような僧――戸次鑑連(のちに雷神と呼ばれる立花道雪)は、口元だけで笑った。
ニヤリ、と。笑っているのに冷たい。
「わしの“殿”と、元就を比べるとな……いかんせん、命令に自信がない」
「……言うなよ、鑑連さま」
大柄な僧――由布惟信(由布雪下)は、苦い顔で言った。
自信がないのは、命令を下す側ではなく、受ける側の自分の腹だった。
攻めろと言われれば攻める。だが、攻めた先に待つのは“勝つ”ではなく“持つ”だ。
鑑連が、優しい声に切り替える。
「由布。どう思う」
「……攻めるなら勝てるときに攻める。だが、今は“勝てる”の形が見えすぎて、逆に気味が悪い」
「ほう」
「軍勢を並べれば勝てる。――それなら、狂犬はここまで町を整えねぇ。整えすぎてる。あれは“取られても困る形”じゃない。“取る側が困る形”だ」
鑑連は、視線を細くした。
「取る側が困る」
「倉と関銭と治安。港は一度焼けば終わりだ。焼いたら、翌年から銭が死ぬ。狂犬は焼かせる前提で“仕組み”を先に敷いている」
「……民と商人を盾にする、と」
「盾じゃねぇ。武器にしてる」
鑑連は、もう一度だけ、海峡を見下ろした。
そして、頭の中で軍略が整ったのか、すっと息を吸う。
「孫子に曰く――」
鑑連が低く唱える。
「『兵は詭道なり』」
由布が即座に返す。
「『故に能なるも、之に不能を示し』……だな」
鑑連が頷く。
「そうだ。狂犬は“強い”のに“強さ”を見せぬ。いや、見せ方が違う。軍の強さではなく、港の強さを見せる」
由布が唇を噛む。
「港を見せられたら、武士は手が鈍る。斬れば壊れる。壊せば民が騒ぐ。民が騒げば、商人が逃げる。商人が逃げれば、銭が止まる」
「孫子に曰く――」
鑑連が続ける。
「『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』」
由布が苦笑した。
「……狂犬は、それを女の顔でやるのか。やりにくいな」
鑑連は、閻魔の顔のまま、ぽつりと言った。
「やりにくい戦は、勝ちやすい。人の心が割れるからな」
由布が足元の小石を蹴る。
「だが、俺たちは武士だ。心が割れようが、命令があれば動く」
鑑連が静かに言う。
「だからこそ、命令の前に“見”を取る。――まずは、敵を知る」
「偵察か」
「偵察ではない。視察だ。学びだ」
由布が海峡を指差した。
「……見ろ。船が入った」
門司の港へ、早船が滑り込む。
荷は少ないのに人が多い。情報の船だ。
潮の速さに負けぬよう、櫓が休みなく動いている。
鑑連は、編み笠をかぶり直した。
「よい。今日は攻めぬ。――降りるぞ、由布」
「どこへ」
「門司の町へ。港へ。彦島の影を、近くで見る」
由布が鼻で笑った。
「坊さんが港の視察か。ありがたい世だ」
鑑連がふっとだけ優しい顔になる。
「坊主はな、泥を見て、綺麗事を捨てる仕事だ。……だが、狂犬は泥を“銭と法”で洗う気だ。そこが怖い」
由布は、ひとつだけ、口をついて出た。
「鑑連さま。武田晴信と文を交わすってのは、本当か」
鑑連は歩きながら、目だけで笑う。
「本当だ。あやつは、戦が好きで、民も好きだ。矛盾を抱えたまま走る。……狂犬と似ている」
「じゃあ、晴信も――狂犬を警戒してる?」
「警戒している。だが、同時に“学びたい”とも思っている。……恐ろしいことになりそうだな」
足立山の尾根を下りる二人の僧。
鎮西無双――雷神と呼ばれる男と、その腹心。
彼らが見ているのは、城でも首でもない。
潮目。
銭の流れ。
人の心の割れ目。
その全てを束ねる“狂犬”という異物を、確かめに来たのだった。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月下旬/晴れ)
門司の足立山に、僧が二人いたらしい。
しかも、ただの僧じゃない。雷神の鑑連さまと、由布殿。
……って、聞いた瞬間、胃がきゅうっとなった。
この頃の私の胃、戦より早い。潮より早い。完全に負けてる。
母上(狂犬お市さま)は、こういう相手が来ると、たぶん喜ぶ。
「見に来たか? わらわの港は美しいじゃろ?」って言う。絶対言う。
そして、なぜか“試し”を始める。
やめてほしい。ほんとにやめてほしい。
でも、少しだけ思った。
雷神が足立山で孫子を口にしたなら――
あの人は“戦”を見に来たんじゃなくて、“港”を見に来たんだ。
戦国で、港を見に来る武将が増えたら。
それは、戦が変わる合図だ。
……合図は分かった。
だからお願い。今日は誰も、頭に的を乗せないで。




