第314話 爺の一筆、安芸を動かす
西暦1556年4月7日(弘治二年・卯月中旬/春)
関門の潮は早い。
だが、商いの潮はもっと早い――そう言うのが堺の流儀であり、赤間関の商人の矜持でもあった。
赤間関の廻船問屋・佐甲家。
戸を叩かれるより早く、手紙は入ってきた。瑠璃姫と徳姫が息を切らし、頬を赤くして、まっすぐ差し出した封。
「佐甲さま。多治比殿より、預かり物です」
瑠璃姫が言うと、佐甲の当主は一瞬だけ目を細めた。名前を聞いた、その瞬間に――相手の“正体”を悟った顔だった。
徳姫が付け足す。
「母上が、“走って届けろ”って」
「……狂犬殿らしいな」
当主は笑ったが、その笑いはすぐ消えた。封を掌で転がす。墨の匂いが、まだ生きている。
若旦那(息子)が、喉を鳴らして言った。
「親父。これ……当たりだな」
「当たりも外れもあるか。これは“潮目”だ」
佐甲家は商人だ。戦の勝ち負けに賭けて飯を食う。
だが同時に、“筋”にも賭ける。誰が天下を取るかだけじゃない。誰が民を生かすか、誰が港を回すか、誰が関銭を整えるか――その先を読む。
当主は決めた。
「早船を出せ。馬も用意しろ。若、お前が走れ。わしは海を回す」
「両方、俺がやる」
「馬鹿言え。お前が死んだら番頭が泣く」
若旦那は苦笑して、店の奥へ駆けた。帆布、干し飯、銭、印形。商人の戦支度は速い。
そして佐甲家の早船が、赤間関の波を蹴った。
――安芸へ。吉田郡山へ。
道中、噂は何度も佐甲の耳に刺さった。
「毛利元就は死んだ」
「いや、膾にされた」
「狂犬の診療所で拾われた爺がいるらしい」
どれも本当で、どれも嘘だ。
商人は噂を“材料”にする。だが、材料だけでは鍋は煮えない。
火が要る。決定的な“火”が――この封の中にある。
吉田郡山城。
毛利の城下は、春の匂いより先に、焦げた匂いがした。焼けた屋敷、減った人足、薄い笑い。戦の後の城下は、いつも同じ顔をする。
佐甲当主と若旦那は、門をくぐる前に礼を整えた。
商人は武士ではない。だからこそ、頭を下げる角度ひとつで命が決まる。
「赤間関、佐甲でございます。急ぎの使いにて」
先触れのやりとりは短い。
小早川隆景が“下関へ行った”という噂が、城内にも届いているのだろう。今、毛利は神経が尖っている。
通されたのは、評定の間ではない。
広間の奥、火鉢の置かれた静かな部屋だった。ここが今の毛利の“心臓”だ。
毛利三兄弟――隆元、元春、隆景(戻ったばかりの顔)。
そして残った重臣たち。桂元澄、口羽通良。
さらに、宍戸隆家に嫁いだ五龍――兄妹というより、毛利家を繋ぎ止める“結び目”のひとつ。
隆元が、まず労った。
「遠路ご苦労。……城下の宿で温まれ」
「恐れながら。温まるのは、この一通を読んでからにございます」
佐甲当主は、畳に額がつくほど頭を下げ、封を差し出した。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
隆景の目が、ほんの僅かに揺れる。――父の筆跡を、思い出したのだ。
隆元が封を受け取り、手元で破る。
紙の擦れる音だけが、部屋に響いた。
読み始めたのは隆元だった。声に出す。
だが、途中で喉が詰まった。文面が、父の“命令”であり、“赦し”であり、“遺言”であり――そして何より、“敗北の受け入れ”だったからだ。
「……『わしは戦に敗れ、狂犬お市殿に拾われ、命をつないだ』」
隆元の声が掠れる。
元春が、拳を握る。畳に、音が出るほど強く。
「父上……生きて……」
それが喜びなのか、屈辱なのか、元春自身にも分からない。
隆景は、視線を落としたまま言った。
「……下関で見た。松葉杖で歩いていた。姫二人に支えられて」
一言だけで、全員が理解した。
父は“生きて”いて、“狂犬の側”にいる。
五龍が、唇を噛んだ。
「……父上は、姫様たちに下の世話まで……」
口にするだけで、武家の常識が崩れる。
だが、その崩れ方が“救い”の形をしているのが、余計に胸に刺さる。
桂元澄が、低い声でまとめる。
「要は、こうだ。――争うな。連合に入れ。安芸を守れ。父上が後詰めに入る、と」
口羽通良が頷く。
「狂犬の後詰めは、実際に強い。永興寺で見た兵の運用……あれを敵に回すのは、最悪です」
隆元は手紙の次の段を読み上げた。
「『狂犬殿と連合に入れ。連合は後詰めに入る。わしも外から後詰めに入る。安芸から東を目指せ』……」
“東”。
それは撤退ではない。屈服でもない。
生存戦略だ。尼子の圧、石見銀山の火種、残った国人の不安――安芸は今、内も外も薄い。ここで西へ血を流せば、家は折れる。
隆元は、ゆっくり顔を上げた。
「父上は……狂犬の家臣になった、と書いている」
元春が声を荒げる。
「家臣だと? 父上が? 毛利の――」
「元春」
隆景が遮った。
「父上は、“外から守る”と言っている。中にいれば、我らは父上の謀に縛られる。だが外なら、父上は“後詰め”として我らを助けられる」
元春は歯を食いしばる。
「……分かってる。分かってるが……腹が……」
五龍が、静かに言った。
「腹が立つのは、父上が負けたからじゃない。父上が“生き方を変えた”からよ。……そしてそれが、正しいかもしれないから」
重い言葉だった。部屋が黙る。
隆元は、佐甲当主へ視線を向ける。
「佐甲殿。父上は……何か、口添えはあったか」
当主は首を振った。
「手紙のみ。されど、商人は読みます。これは“停戦”の手紙ではございません。“合流”の手紙です。港を回し、関銭を整え、倉を増やし、民を生かす……その流れに、毛利が乗るかどうか」
若旦那が続ける。
「乗らなきゃ、潮に攫われる。今の関門は、もう狂犬の海だ」
元春が、ふっと笑った。乾いた笑いだ。
「商人は容赦ないな」
「容赦があると、船が沈みます」
若旦那は真顔で返した。
隆元が立ち上がる。
「……決める」
その一言で、家臣たちの背が伸びた。
「隆景。再び下関へ。狂犬へ――いや、連合へ。父上へも伝えよ。毛利は、争いを止める」
元春が拳を解き、息を吐いた。
「俺は銀山と尼子を見る。吉川と連携する。――家を折らせん」
桂元澄が頷く。
「後詰めを得るなら、守りの形が変わりますな」
口羽も続ける。
「まずは国人へ。毛利が“生き残る道”を選んだ、と」
五龍が、最後に小さく頭を下げた。
「父上に……届くかしら。私たちが、父上の言葉を受け取ったって」
隆元は手紙を畳み、胸元にしまった。
「届く。潮より速く」
そう言って、隆元は佐甲へ向き直る。
「佐甲殿。礼を言う。毛利は……商人の義も忘れぬ」
当主は深く礼をした。
「恐れながら。義は“勝機”と一緒に運ぶものにございます」
軍議は始まった。
戦の軍議ではない。
家を“生かす”軍議だ。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月中旬/晴れ)
今日は彦島ではなく、安芸の話が飛び込んできた。
佐甲家の商人が、多治比殿(元就)の手紙を運び、吉田郡山で軍議になったらしい。
商人って、足が速い。早船と早馬を同時に走らせるの、もう兵站。
狂犬堂の補給係としては、ちょっと感心してしまう。悔しい。
内容はたぶん――
「争うな」「連合に入れ」「父は外から後詰めに入る」
あの胡散臭いジジイが、あれだけ汗かいて歩いて、やっと出した答えだ。重い。
毛利が止まれば、西の血は減る。
血が減れば、診療所の包帯も減る。
包帯が減れば、私の睡眠が増える。
つまり、世界は少し良くなる(たぶん)。
明日:瑠璃姫さまと徳姫さまは、相変わらず走らされる予感。
母上は今日も平常運転。怖い。




