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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第313話 爺の手紙、潮より先に届く

西暦1556年4月5日(弘治二年・卯月中旬/春)

彦島の桜は、散るふりをして、まだ粘っていた。

朝は潮が冷たく、昼は日差しがあたたかい。関門海峡は相変わらず早い――早すぎて、悩みも後悔も、置いていかれそうになる。

多治比就元は、病室へ戻るなり、座るより先に息を整えた。

歩行訓練のあと、腿の古傷がじわりと疼く。だが、痛みより先に、二つの声が飛んでくる。

「多治比殿っ、今日はね、ちゃんと歩けましたね!」

瑠璃姫が、包帯の端を指で撫でるように確認しながら、にこにこ言った。

「うん、汗も昨日より少ない。……徳、ほら、水」

徳姫が木椀を差し出す。手つきがもう医者見習いのそれで、就元は目を逸らしたくなった。

かつて自分が“扱った側”だったからだ。

「……やめよ。そんな顔をするでない」

就元が小さく呻くと、瑠璃姫が首を傾げる。

「顔?」

「うん、顔です。多治比殿、さっきから“難しい顔”してます」

徳姫が言い切って、少し笑う。

二人の笑い方が、どこか似ている。

就元は胸の奥がじり、と焼けるのを感じて、話を逸らした。

「……瑠璃殿。硯と筆を頼めるか」

「お手紙ですか?」

瑠璃姫の目がきらりとする。徳姫も身を乗り出した。

「え、誰に? 母上? ……あ、母上なら隣です」

「違う。……安芸へ出す」

その言葉だけで、二人の空気が変わった。

軽さが消え、真剣な医務の顔になる。瑠璃姫は慌てず、棚から硯箱を取り出し、徳姫は水差しを用意する。手際が良い。

――狂犬母上の“逃げ足鍛錬”の成果かもしれぬ。余計なことを思ってしまい、就元は咳払いした。

「多治比殿、墨、濃いめがいいですか?」

「……濃いめで頼む」

硯に水が落ち、墨が鳴る。

その音が、なぜだか落ち着く。戦場の鬨や火縄銃の轟きとは、別の世界の音だ。

就元は筆を握った。

指が震えた。老いではない。迷いだ。

“死んだことになっている”自分が、息子たちへ手紙を書く。

それは命令なのか、赦しなのか、遺言なのか――どれでもなく、全部だった。

瑠璃姫がそっと紙を押さえる。

徳姫が目で「大丈夫」と言う。

その優しさが、痛い。

就元は筆を走らせた。

――拝啓。

安芸の息子たちへ。娘へ。孫へ。妻殿へ。

わしは戦に敗れ、狂犬お市殿に拾われ、命をつないだ。

看病され、医術を施され、かつての主君の娘である姫二人にまで、世話を受けた。汚物の処理も、着替えも、食事も――すべてだ。

そこまで書いて、筆が止まる。

瑠璃姫が息を呑み、徳姫が紙の端を握りしめる。

就元は続けた。

――恥を知れ、と言われても仕方ない。だが、恥で死ぬより、役目を果たして死ぬ。

家督は長男が継げ。次男も三男も兄を支え、安芸を守れ。

そして――毛利は、わしの謀と争うな。争えば、血が増える。

狂犬お市殿と連合に入れ。

連合は後詰めに入る。わしも外から後詰めに入る。

安芸から“東”を目指せ。西は、潮が早すぎる。

東へ伸びろ。道は作っておく。

筆先から墨が落ち、点になった。

就元は、そこだけ指で押さえた。滲みが広がる。

まるで、遅れて来た涙みたいだった。

「……多治比殿」

瑠璃姫が小さく呼ぶ。

就元は首を振って、最後の署名を書いた。

――多治比就元 拝

書き終えた瞬間、胸の中の何かが、すーっとほどけた。

戦場で勝った時でも、負けた時でもない。

“決めた”時の静けさだった。

就元は筆を置き、深く息を吐いた。

瑠璃姫が手早く乾かし、徳姫が封に糊を付ける。二人とも慣れてきているのが恐ろしい。医療も手紙も、覚えるのが速い。

「これを、赤間関の商人――佐甲さこう家へ渡してくれ」

就元が言うと、瑠璃姫が頷く。

「佐甲家……下関の?」

「そうだ。『多治比から預かった』と言えば分かる。……昔、堺の廻船問屋と繋がる時、間に立った家だ」

「堺……」

瑠璃姫が、戦国の“金と潮”の匂いを思い出したように眉を寄せる。徳姫は興味津々で聞く。

「堺の商人さんって、そんなにすごいんですか?」

「すごいというより、抜け目がない。尾張のいちで米の値が動けば、堺の銀の流れも動く。戦の勝ち負けより、帳面の一行が怖い」

就元が言うと、徳姫がくすっと笑った。

「帳面の一行が怖い……母上みたい」

「やめよ。あれは帳面も拳も怖い」

思わず本音が出てしまい、瑠璃姫と徳姫が声を上げて笑った。

その瞬間、障子の向こうから声が飛ぶ。

「誰が怖いって?」

白衣の狂犬お市様が、ぬるりと入ってきた。

就元は反射で背筋を伸ばす。徳姫が口を押さえる。瑠璃姫は「しまった」という顔をした。

お市様は就元の前に座り、封を一瞥する。

「手紙か。よい。出せ」

命令が軽い。軽すぎる。

「ただし」

にやり、と唇が上がる。

「わらわの側近になった初日に“逃げ道”作るのは感心せぬの」

「逃げるためではない」

就元が言い切ると、お市様は目を細めた。

「ほう。言い切ったな。えらいぞ、爺さん」

褒め方が、犬を撫でる時みたいだ。

「瑠璃、徳。届けるのはよいが、走れ。訓練じゃ。赤間関まで走って帰って来い。潮風は肺に良い」

「母上、それ訓練ですか?」

瑠璃姫が恐る恐る聞くと、お市様は平然と言った。

「訓練じゃ。医者は足が命。患者は待ってくれぬ。戦も待ってくれぬ」

そして、就元へ視線を戻す。

「爺さんは座っておれ。まだ逃げ足は未完成じゃ」

就元は、笑うべきか、泣くべきか分からなくなった。

だが――この女の“理屈”は、いつも現場に繋がっている。

それが、怖い。

そして、どこか羨ましい。

瑠璃姫と徳姫が封を抱え、顔を見合わせる。

「行ってきます!」

二人は声を揃え、病室を飛び出した。

障子が閉まる。

部屋に残ったのは、白衣の狂犬と、胡散臭い爺だけ。

お市様は飴玉を一つ口に放り込み、さらりと言った。

「爺さん。手紙を出したら、次は軍議じゃ。毛利の子らが動くなら、周防長門の“次”も動く。逃げ足より先に、頭を動かせ」

「心得た」

就元が答えると、お市様は満足そうに頷いた。

「よい。……あ、そうじゃ」

とても嫌な間を作ってから。

「明日、遅刻したら走れ」

就元は、桜の花びらが舞う窓の外を見た。

潮は早い。

だが、手紙はもっと早く届いてほしい――そう思った。

祐筆桃の日記(弘治二年・卯月中旬/晴れ)

多治比殿(胡散臭いジジイ)が、手紙を書いた。

書き終えたあと、顔が少しだけ軽くなった気がした。たぶん、胸の中の石を一つ降ろしたのだと思う。

瑠璃姫さまと徳姫さまは、手紙を届ける役目を任されて、うれしそうだった。

……ただし、母上は「走って行け」と言った。

届け物は徒歩ではなく、基本“訓練”らしい。彦島の常識は世間の非常識である。

手紙の行き先は赤間関の佐甲家。

「多治比から預かった」と言えば通じる、と多治比殿は言った。

商人のつながりは、潮の流れみたいに見えないのに強い。

母上は多治比殿に言った。

「次は軍議じゃ。頭を動かせ」

やっぱりこの人、医者なのに戦を止めない。

止めないどころか、制度で終わらせようとしている。怖い。けど――多治比殿の目が、少しだけ前を向いた。

明日の予定:軍議。

追加:遅刻したら走れ(母上命令)。

彦島は、今日も平常運転。

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