第312話 胡散臭い爺、側近になる(なお逃げ道なし)
西暦1556年4月5日(弘治二年・卯月中旬/春)
彦島の桜は、戦の匂いより先に咲く。
潮風に花びらが混じり、訓練馬場の土に落ち、踏まれても、また飛ぶ。
胡散臭いジジイ――いや、今日からは違う。
松葉杖を握りしめたまま、彼はぽつりと名乗った。
「多治比就元じゃ」
一拍おいて、吐き捨てるように付け足す。
「……杉でもよい。なんでもよい」
言った瞬間、肩の骨が一本抜けたみたいに、背が少しだけ軽く見えた。
だが、相手が狂犬お市様である。名乗った瞬間から、話が勝手に“次”へ進む。
お市様は、就元を一度だけ見て、すぐ瑠璃姫と徳姫の方を向いた。
二人は汗をかき、走り込みの帰りらしく頬が赤い。医務の手も、訓練の足も、もう「姫」の域を超えかけている。
お市様は二人の頭をわしゃわしゃ撫でた。
「ようやった、ようやった」
抱きしめる腕が強い。医師の白衣なのに、抱擁が武将のそれだ。
「医師はの、患者が幸せになることを第一と心得よ。治すだけでは足りぬ。生きていけるようにするのが医療じゃ」
瑠璃姫は泣きそうな顔で、でも背筋を伸ばした。
徳姫は拳を握って頷いた。真理姫も後ろで鼻をすすっている。
そこへ、お市様が何でもない風に言い放つ。
「で、じゃ。爺さん」
就元が反射で背を正す。
「今日からわらわの家臣じゃ。側近として仕えよ」
「……は?」と誰かが言いかけたが、空気が凍る。
「軍議には必ず参加。明日から気合い入れよ」
就元は一瞬、言葉を探した。
逃げ口上も、遠回しの拒否も、目の前の狂犬には通じない。
だから、彼は最短で答えた。
「心得た」
その二文字が落ちた瞬間、彦島城の客間の温度が変わった。
“捕虜”が、“役目”になった。
お市様は満足げに頷き、白衣の裾を翻して医務室へ戻っていく。
まるで「それじゃ明日ね」みたいな軽さで。
取り残された就元は、遠くの桜を見た。
潮の向こうに門司。下関。白壁が増え、倉が建ち、灯台が整い、人が増える。
戦で奪った土地なのに、ここでは“暮らし”が先に来ている。
涙が、勝手に落ちた。
(もうよいじゃろ)
胸の奥で、ずっと蓋をしていた声が言う。
(子を、家族を守って幾十年。引退しても、よいじゃろ)
だが、次の声がそれを叩き潰した。
(安芸におったら出来ぬ。外におって、外から守る)
(狂犬の側でなら、家族も、毛利も、安芸も――守り方を変えられる)
就元は、関門海峡の流れを見た。
ここは、潮が早い。
そして、今日の自分の心は、その潮より早かった。
「……瑠璃殿、徳殿」
二人が顔を上げる。
就元は松葉杖を脇に抱え、深く頭を下げた。武将の礼ではない。老人の、ひとりの人間の礼だった。
「今後とも、よろしくお願い申す」
声が少し震えた。
「新参者ゆえ、迷惑もかける。……いや、下の世話まで迷惑をかけてきた。詫びても詫び足りぬ」
瑠璃姫は慌てて首を振った。
「そんな……!」
徳姫も言葉を探して、唇を噛んだ。
就元は続ける。
「今後は、瑠璃殿、徳殿の父母が出来なかった世の中を――お市様とともに作ろう」
目を上げると、二人の瞳が揺れていた。
「命あるかぎり。わしは、ここにおる」
潮の音が、途切れない。
桜の花びらが、就元の肩に落ち、また飛んだ。
毛利元就の新たな戦いは――
刀でも、謀でもなく、制度と医療と暮らしで始まった。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月中旬/晴れ)
多治比就元(胡散臭いジジイ)が、家臣になった。
いや、正確には「家臣にされた」。本人の同意は「心得た」の二文字だけだが、狂犬母上にとっては十分らしい。怖い。
母上は瑠璃姫さまと徳姫さまを抱きしめて、「医師は患者の幸せが第一」と言った。
“治す”だけじゃなく、“生きられる”ようにする――母上の医療は、戦より怖い。なぜなら、逃げ道がない。
就元は桜を見て泣いた。
そのあと瑠璃姫さまと徳姫さまに頭を下げ、「父母が出来なかった世の中を作ろう」と言った。
あの胡散臭いジジイが、未来の話をした。これは事件である。
なお、母上は医務室へ戻る前に一言だけ残した。
「明日から軍議じゃ。爺さん、遅刻したら走れ」
……家臣とは、労働契約ではなく、筋トレ契約なのかもしれない。




