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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第311話 名乗りは、遅いほど重い

西暦1556年4月5日(弘治二年・卯月中旬/春)

彦島の春は、城の音より先に、暮らしの音がする。

槌が打たれ、白壁が増え、灯台の狼煙台が整えられ、港には商いの声が戻ってくる。戦国の港町にしては――あまりに“普通”だ。

だからこそ、胡散臭いジジイは落ち着かなかった。

訓練馬場の長椅子。桜の花びらが潮風に運ばれ、白衣の袖に一枚、ふわりと乗った。

狂犬お市様は、その花びらを指でつまみ、飴玉を口の中で転がしながら、さっきからずっと同じ顔でジジイを見ている。

――家臣にならぬか。

その言葉が、胸の奥でまだ鳴っている。

胡散臭いジジイは、ふと、自分の手を見た。

松葉杖を握り続けて硬くなった指。戦場で書状を握り、地図を広げ、算盤を弾き、家臣の命を秤にかけてきた手。

(毛利を守った)

(子を、家族を、家臣を、安芸を守った)

守った。確かに守った。

だが、目の前の狂犬は、その“守り方”を、笑いながら崩そうとしている。

「……力と銭と法と、民の幸せ、か」

胡散臭いジジイが吐き捨てるように言うと、お市様は機嫌よく頷いた。

「うむ。力は要る。銭も要る。法はもっと要る。で、最後に腹が満ちる。これが大事じゃ」

「腹が満ちれば恨みが消えると?」

「薄くなる。恨みで腹は膨れぬからの」

その軽さが、ジジイには怖い。

重い命を、軽く扱っているのではない。

重い命を、軽く死なせないために、やっている――そう見えるのが怖い。

胡散臭いジジイは、言葉が止まらなくなった。

心の奥で、何かが崩れたまま、出口を探している。

「女や子が売られる国……」

声が震える。怒りなのか、哀しみなのか、自分でもわからない。

「石見の鉱夫のように、三十まで生きたら幸せだと言わされる国……」

「……」

「阿弥陀に頼んで幸せになれたか。神に頼んで幸せになれたのか」

お市様は、からかうのをやめた。

真顔のまま、黙って聞く。

その沈黙が、余計にジジイを追い詰めた。

「誰かの幸せを奪って、自分が幸せになる。結局それを繰り返してきただけじゃ……」

胡散臭いジジイは、息を吐く。

「釈迦はどうした。戦の前に立って軍を引き返らせたという。日蓮はどうした。執権に諌め、命を張って民に語ったという」

自分で言いながら、ジジイは気づく。

――自分が今、誰に向かって諌めているのかを。

お市様は、唇の端だけ上げた。

「ほう。ジジイ、仏の話もできるのか。胡散臭いだけではないの」

「茶化すな」

「茶化しておらぬ。ありがたい話じゃ」

胡散臭いジジイは、視線を外した。

遠くに見える白壁。増えていく家。働く人。笑う子。

戦の勝利の上に、それらが積まれていくのを、見せつけられている。

お市様が、静かに言う。

「わらわら武士は、修羅の道を行ったり来たりじゃ。そこから降りる道を作らねばならぬ」

「……降りる道?」

「うむ。医師を増やす。弟子を育てる。命を救う」

白衣の袖が風に揺れる。

「子や女や家族を売らなくてよい国を作る。豊かな國を作る。……その手伝いをせぬか、ジジイ」

胡散臭いジジイは、喉が詰まった。

戦で死ぬのは、慣れている。

だが、こういう言葉で刺されるのは、慣れていない。

お市様は、さらに追い込む。

優しい声で、残酷なことを言う。

「ジジイ。お主の子らを、外から見守ってやれ」

「外から……?」

「近くにおると、見えぬものがある。外からでないと、できぬことがある」

お市様は飴玉をころりと転がす。

「家はの、近すぎると息が詰まる。遠すぎると死ぬ。ちょうどよい距離というものがある」

胡散臭いジジイの胸の奥で、何かが折れた。

誇りか。意地か。名か。

どれが折れたのか、もう判別できない。

瑠璃姫と徳姫が、少し離れた場所で見守っていた。

二人とも、口を結んでいる。

だが目は、祈るみたいにまっすぐだ。

胡散臭いジジイは、その目に耐えられなくなった。

「……名を、言えばよいのか」

自分でも驚くほど、声が弱い。

お市様は、待っていたように頷いた。

「言え。名は、心の門じゃ。門が閉じておるうちは、誰も入れぬ」

胡散臭いジジイは、松葉杖の握りを強くした。

潮の匂いが胸に刺さる。桜が視界を揺らす。

この島に来てから、ずっと避けてきた言葉を――いま、吐き出す。

「……ワシの名は、就元なりもと

瑠璃姫が息を呑み、徳姫の目に涙が滲んだ。

「氏は大江、姓は多治比……」

そこまで言って、胡散臭いジジイは自嘲した。

「……杉。なんでもよい」

お市様は、笑わなかった。

ただ、深く頷いた。

「よい。就元」

名を呼ぶ声が、妙に優しい。

「名を戻したな。なら、次は……生き方を決める番じゃ」

胡散臭いジジイ――就元は、目を閉じた。

この島の春は、甘い飴の匂いがする。

その甘さは、戦国の常識には、あまりに不似合いで――だからこそ、怖い。

祐筆桃の日記(弘治二年・卯月中旬/晴れ)

本日、胡散臭いジジイが、ついに名乗った。

名は「就元」。氏だの姓だのも言い出して、途中で「なんでもよい」と投げたが、あれは投げたのではなく、長年握っていたものを落とした音だと思う。

母上(狂犬お市様)は、今日だけは茶化さなかった。飴玉をころころしながら、まるで医師が患者の胸を診るみたいに、就元を見ていた。

瑠璃姫さまと徳姫さまは、名乗りの瞬間、泣きそうな顔をしていた。二人にとっては、あのジジイが“胡散臭いジジイ”から“人”になった日だ。

私は思う。

名乗るのは、降参ではない。

名乗るのは、「ここから先、逃げない」の宣言だ。

……ただし、相手が狂犬お市様なので、逃げたくても逃げられない可能性が高い。

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