第310話 飴玉ひとつで、腹を割れ
西暦1556年4月5日(弘治二年・卯月中旬/春)
彦島の春は、潮の匂いに桜が混じる。
戦の島のはずなのに、花が咲くと、どこか人の暮らしが先に立つ――そんな矛盾を、この島は平気で抱えていた。
胡散臭いジジイは、今日も歩いていた。
松葉杖を握る指はまだ細い。太腿の銃創は塞がり、熱も下がった。だが落ちた体力は、熱よりもしぶとい。息が上がるたびに、悔しさが顔に出る。
「ジジイ様、休みましょ。息、白なってます」
瑠璃姫が背を支え、徳姫が脇からそっと肩を抱いた。二人とも汗ばんでいる。本人が歩く以上に、付き添う二人が走っているからだ。
「……主が走りすぎじゃ」
ジジイがぼそりと言うと、徳姫が笑った。
「母上が『逃げ足は命』って。毎朝二里、走らされます」
「走らされ……」
「はい。自分から走る日もあります」
瑠璃姫が真面目に追い打ちをかける。
胡散臭いジジイは、桜の木陰にある長椅子へ腰を下ろした。
目の前には、歪な円形の訓練馬場。商館の裏から福浦の灯台まで回れるほど広い。しかも、馬場の向こう側――下関にも、対岸の門司にも、白い壁が増えているのが見える。
「……白壁が増えたな」
思わず本音が漏れる。
「漆喰です」
瑠璃姫が即答した。言葉の端々に誇らしさがある。
「母上が、『海風は壁を削る。なら壁を強くする』って」
「……ほう」
胡散臭いジジイは、目を細めた。城は派手ではない。だが、増えていく白壁の“方向”が怖い。戦の勝ちを、建物に変えている。勝ちを、暮らしに換えている。戦国で一番難しいやつだ。
徳姫が水筒を差し出す。
「お水、飲んでください」
「……うむ」
胡散臭いジジイが口をつけた瞬間、背後から白衣がすっと横に座った。
狂犬お市様である。医者の顔の時は、わりと静かだ。――笑ってさえいなければ。
「よく歩いたの。偉いぞ、ジジイ」
「子ども扱いするな」
「子どもはもっと可愛い。ジジイは胡散臭い」
「余計ひどいわ!」
瑠璃姫と徳姫が、こっそり笑って顔を伏せた。
胡散臭いジジイは、気づいた。二人が笑っている時は、場が安全だ。二人が笑えない時は、だいたい狂犬が本気だ。
お市様は白衣のポケットに手を入れ、飴玉を一つ取り出した。
透き通るような琥珀色。光に当てると、薄い金が混じる。
「飴じゃ」
「……飴?」
「砂糖から作った。さとうきびの砂糖じゃな」
お市様が胸を張る。
「医療に使えぬかと思って作っておったら、瑠璃と徳と真理の間で流行っての。困ったものじゃ」
「困ってない顔をして言うな」
「困っておらぬ。よし、食え」
胡散臭いジジイは、じっと飴を見た。
毒だの何だの――疑う癖は抜けない。生きるための癖だ。だが、目の前の女は、最初からその癖ごと承知している顔をしていた。
お市様は飴玉を自分の口に入れ、わざとらしくころころ舐めた。
「ほれ。わらわが舐めておる。毒など入っておらぬ」
「……」
「それとも何じゃ? わらわの唾液が欲しいのか? とんだスケベジジイじゃの」
「違うわ!!」
胡散臭いジジイが反射で叫ぶと、瑠璃姫と徳姫が肩を震わせた。笑いを堪えている。お市様は満足そうに、もう一粒の飴を指で弾くように――
ぽいっ。
胡散臭いジジイの口へ投げ入れた。
「んぐっ……!?」
「口で受けるの、うまいの。鍛えておるな」
「褒め方が最悪だ!」
だが、次の瞬間。
甘さが、舌の上でじわりと広がった。蜜のように濃いのに、喉がすっと軽くなる。香りが抜ける。咳が出そうだった喉が、嘘みたいに静かになった。
「……甘い」
胡散臭いジジイが、小さく呟いた。
お市様は、にたにたした。
「美味いじゃろ」
「……この甘さは、土佐でも京でも、そうそう口に入らぬ」
「じゃから売る。狂犬堂で売り出す」
お市様が指を一本立てる。
「まずは子と、ばあ様と、爺様に無料配布じゃ。孫を甘やかすからの」
瑠璃姫が目を輝かせた。
「母上、それ、寺小屋の子にも――」
「配る」
徳姫が嬉しそうに頷く。
「病の子にも――」
「配る」
胡散臭いジジイが言葉を挟む前に、決まっていく。
商いの話なのに、最後は“人”に落とす。胡散臭いジジイはそこが一番、怖いと思った。
お市様は、飴の余韻を舐めている胡散臭いジジイを横目に、急に声の温度を落とした。
笑っているのに、刃物みたいな静けさになる時がある。
「ジジイ」
「……なんだ」
「わらわの家臣にならぬか」
瑠璃姫と徳姫が、ぴくりと動いた。
二人は何も言わない。ただ、胡散臭いジジイの袖を掴む指に、少しだけ力が入った。
お市様は続ける。
「瑠璃と徳が慕っておる。わらわも――死ぬまで面倒みてやる。衣食住医療、無料じゃ」
「……」
「給金は小遣い程度だが出す。働けるようになったら、働け。働けぬなら、働けぬ形で役目を作る」
「役目?」
「人は役目がないと腐る。腐ったら死ぬ。死なれたら医者が困る」
理屈が通っているのに、言い方が狂犬だ。
胡散臭いジジイは飴を噛み割りそうになって、やめた。歯がもったいない。
お市様は、何気なく言葉を刺す。
「息子や娘がおるみたいじゃの」
胡散臭いジジイの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
瑠璃姫が、徳姫が、気づいて顔を曇らせた。だが、お市様は逃がさない。
「熱でうなされた夜、寝言で呼んでおった。子の名、母の名」
胡散臭いジジイは、目を伏せた。
自分が何を吐いたか、覚えていない。覚えていないことほど恐ろしいものはない。
「……」
「もう、任せたらどうじゃ」
お市様は淡々と言う。
「自力で自立できぬ息子は、この戦国では命がない。だから誰かと同盟し、誰かの家臣になり、誰かの命に従う」
胡散臭いジジイが、低く返す。
「……当たり前だ」
「なら、その“誰か”は誰じゃ?」
胡散臭いジジイは言葉を失う。
感情か。人か。家か。名か。
いや、全部いずれ消える。人は死ぬ。家は潰れる。名は奪われる。感情は裏切る。
お市様が、わざと優しく言った。
「感情は、人はいずれ死に去る。ならば?」
「……法」
胡散臭いジジイが、絞るように言う。
「制度……」
「うむ。法と制度は残る」
お市様は満足げに頷く。
「それを残すのが、ジジイや。わらわ――医師の仕事じゃ」
瑠璃姫が、そっと胡散臭いジジイの背を撫でた。
徳姫が、心配そうに顔を覗き込む。
胡散臭いジジイは、飴の甘さがまだ喉に残るのを感じながら――自分の中で何かが、少しずつ崩れていく音を聞いた。
お市様が、最後にもう一度だけ問う。
笑っている。だがその笑いは、脅しではない。
救いの形をしていた。
「どうじゃ、ジジイ。わらわの家臣にならぬか?」
胡散臭いジジイは、答えなかった。
答えられなかったのか。答えたくなかったのか。
ただ、瑠璃姫と徳姫の手を――振りほどかなかった。
その沈黙だけで、春の潮は少しだけ音を変えた。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月中旬/晴れ)
本日、胡散臭いジジイ(名前はまだ名乗らない)が桜の下でリハビリ。瑠璃姫さま徳姫さまが汗を拭き、水を飲ませ、煎じ薬も飲ませた。二人は本当に優しい。優しすぎて、こちらが心配になる。
お市さまは白衣で現れ、飴玉を作ったと言ってジジイに食べさせた。砂糖の飴は喉がすっとして、確かに薬効がありそう。なお、お市さまは「毒ではない」と証明するために先に舐めたが、証明の仕方がだいぶ狂犬だった。ジジイが全力で否定していたので、場は平和だった。
その後、お市さまがジジイに「家臣にならぬか」と勧誘。条件が衣食住医療無料で、給金も出すという、待遇だけ見れば天国。だが説明の途中で「寝言で家族の名を言っていた」と刺しに来たのが、お市さまらしい。
ジジイは答えなかった。ただ、瑠璃姫さまと徳姫さまの手を離さなかった。
私は思う。あの沈黙は、降伏ではなく、降伏の一歩手前の“敗北の味見”だ。飴玉と一緒に。




